あの事故を「尼崎本」にできた理由。

松本創 まつもとはじむ
1970年大阪府生まれ。神戸新聞記者を経てフリーランスのライター。2016年、『誰が「橋下徹」をつくったか―大阪都構想とメディアの迷走』で日本ジャーナリスト会議賞を受賞。2019年、『軌道―福知山線脱線事故JR西日本を変えた闘い』で講談社本田靖春ノンフィクション賞、井植文化賞を受賞。南部再生編集メンバーでもある。

2005年に発生し、死者107人、負傷者562人に上った巨大鉄道事故。遺族とJR西日本の関係を軸に、事故の内実とその後を追う本書を書くことができたのは、私がこの『南部再生』の編集スタッフだったからだ。

妻と妹を失った淺野弥三一氏とは新聞記者時代に知り合い、彼が設立した「尼崎南部再生研究室」に関わるようになった。南部再生の編集にごく初期から参加し、フリーランスになって以降も淺野氏の尼崎の事務所によく出入りした。亡くなった奥さんともよく顔を合わせ、お世話になっていた。

そんな縁で、JR西を相手に安全の確立と組織変革を求める淺野氏の闘いを、事故直後から間近に見ていた。「事故後にやってきたことを客観的な記録に残したい」という彼の言葉を聞き、「負託に応えねば」と思い定めたのが、事故から13年を経て刊行までたどり着けた最大のモチベーションだった。

もっとも、後になって彼に聞けば、「記録を残したい」と言っただけで、別に私に依頼したわけではないという。私が勝手に気負い、責務を背負い込んだだけなのかもしれない。

だが、そうさせるだけの気迫が彼にはあった。人生をかけて「事故の社会化」に挑む技術屋の執念がみなぎっていた。おかげで、私はノンフィクションを書く者と社会に認められたのだ。

この事故には、工場総出で被害者の捜索・救出に当たった「日本スピンドル製造」をはじめ、多くの尼崎市民が関わった。発生当時の市長だった白井文氏は、遺族とJR西が設置した異例の共同検証会議で委員となり、事故分析と組織変革に多くの提言をしている。

JR史上最悪の事故は、尼崎という街の歴史の中にも大きく位置付けられるのである。

個と組織。交差する再発防止への道

学生時代に「まちづくり」とは、住民が考えた自分たちのまちの将来像を為政者が認める「都市計画」の対義語だと学んだ。主人公は尼崎のまちづくりプランナー。被災地など各地で行政に対し微力である住民に寄り添い、個々の意見や利害を調整し社会が納得する計画づくりに携わってきた。2005年、その家族が脱線事故に遭遇。自らが弱い立場となるが事故原因の究明と再発防止のため超巨大組織を変革していこうと決意する。JR西の対応に憤りを感じたり、歴代社長による組織論には共感できるところもあったり。文庫化で追加された補章では組織の現実を突きつけられた。安全の追求は未来永劫続く。(立石孝裕)

軌道
福知山線脱線事故 JR西日本を変えた闘い

松本創 新潮文庫