論:尼崎は僕の土台を築いてくれた街。 元西宮ストークス 梁川禎浩(やながわ ただひろ)

尼崎のお隣、西宮市を本拠地とするプロバスケットボールクラブ「西宮ストークス」。その中心選手として活躍し、昨シーズンを限りに引退した梁川禎浩さんは尼崎市の城内中学校(現・成良中)出身。当時の思い出や尼崎への想いをうかがいました。

写真提供/西宮ストークス

「人に恵まれた」城内中での3年間。

城内中時代の梁川さん

梁川さんがバスケットボールを始めたきっかけは幼稚園の頃。姉2人がやっていたミニバスの練習を見ながら遊んでいるうちに好きになったそうです。ミニバスのチームに入ったのは小学校2年生。そして、中学生になる時に尼崎へ引っ越し、城内中に入学します。

「城内中は父親の母校で何度か練習にお邪魔する機会があったんです。そこで永原さんというすごく熱心なコーチと出会ったんです」

入部してすぐにレギュラーになったという梁川さん。しかし、永原コーチの練習は「とにかく厳しかった」と振り返ります。

「もう鬼ほど走らされました(笑)。僕の年代は部員が6人しかいなかったんですが、それを言い訳にせず、とにかく走って勝つスタイル。身長の高い子はいないし、僕以外は中学校からバスケットを始めた子たちばかりで、走らないと勝てないんです。今でもよく付いて行けたなと思いますよ。ただ、僕の武器は走れることなんですが、それは中学校の3年間で走りこんだことが土台になっていると思っています」

それでも、厳しい練習に耐えられたのは、多くの人との出会いがあったからこそ。

「コーチを慕ってOBの方がよく練習を助けに来てくれました。育英高校(私立の強豪校)に行った先輩や社会人になっても続けている方など、常に自分のレベルより上の方と練習ができたのは大きかったですね。朝練して、部活もして、夜にOBの方のクラブチームの練習があったらそれにも参加させてもらって。部員は全員仲が良かったですし、本当に人に恵まれていましたね」

名門チームを渡り歩き、再び兵庫県へ。

中学3年の新人戦では兵庫県で優勝。夏の最後の大会では地区大会で敗退したものの、卒業後は全国大会の常連、秋田県の能代工業高校に進学します。

「いくつかの強豪校から声をかけていただいて練習に行きましたが、やっぱり一番環境が整っていました。それに秋田県からはそうやすやすとは帰って来られない。どうせなら最も厳しい環境に身を置きたいと思い、能代工業を選びました。まあ2月頃に行ったので、雪が積もっているのを見て興奮したというのもありますけど(笑)」

高校3年の時にはエースナンバー7番を背負って全国大会優勝、筑波大時代は4年時にチームの1部昇格に貢献。プロ入り後もパナソニックトライアンズ、リンク栃木ブレックスと名門チームを渡り歩きます。尼崎との縁は薄れていましたが、2013年に兵庫ストークス(西宮ストークスの前身)へ移籍したことで再び距離が縮まりました。

「尼崎は僕を育ててくれた土台だと思っていたので、その近くへ帰れるのはすごく嬉しかったです。パナソニックや栃木時代にもベイコム記念体育館で試合をしたことがあり、その度に館長さんが『帰ってきたか~』と声をかけてくださって。全然連絡を取っていなかった同級生がコートサイドに座っていて、試合終了後のハイタッチでびっくりしたこともありましたね。4月の引退試合にも永原コーチをはじめたくさんの方が西宮市立中央体育館に来てくださって、尼崎の近くで現役生活を終えられて本当に良かったです」

最後の試合、梁川さんは観戦にきてくれた尼崎の小中学生にTシャツをプレゼントしました。

「僕は尼崎に育ててもらったという思いがすごく強いんです。だから、尼崎の子供たちに僕がこうしてプロ選手にまでなれたことを知ってもらい、何でもいいので夢を持って一生懸命やれるきっかけにしてほしかったんです」

梁川さんはこれまでも養護施設の子どもたちを試合に招待したり、自ら病院や施設を訪問する「YANAGAWAシート」という活動を重ねてきました。子供たちに夢を与えるのがプロ選手の役目だといい、引退後は教員として指導者の道を目指しています。

「ここまで来られたのは人との出会いのおかげ。その中で多くを学び、プロになれたんです。子供たちが諦めずにチャレンジするきっかけになりたいと、プロ生活を続けてきました。次のステージでも同じように、子供たちに何かを伝えられたらと思っています」


取材と文:大迫力