ムロトとジェーンと防潮堤

あの台風はすごかった。今も語り草となっている二つの台風。それは尼崎を高潮から守る防潮堤建設に至る苦闘の歴史でもあった。文字通り風化させないために歴史的事実を改めておさらいしておこう。

ジェーン台風により泥海と化した出屋敷商店街(昭和25年9月)尼崎市立地域研究史料館所蔵広報課写真

1934(昭和9)年9月21日、阪神地方を記録的な大型台風が襲う。室戸台風である。尼崎では豪雨に加え、強風によって吹き寄せられた海水が高潮となって街を飲み込んだ。阪神電車の線路以南を中心に市内3分の2が浸水し、合併前の大庄村・小田村も被害は甚大だった。尼崎市の死者146人は、阪神間総数266人の半数以上を占めたことからも、その被害の大きさを物語る。特に老朽化していた小学校の校舎が倒壊し、多くの児童が死傷したことは痛恨で、これを契機に木造校舎の学校が鉄筋造に改築されていくことになる。

その後も何度となく台風による高潮の被害を受け、強固な防潮堤の建設は市民にとっての切実な願いとなった。しかし、そんな人々の思いをあざ笑うかのように、またしても巨大な台風が尼崎を襲う。1950(昭和25)年9月3日、ジェーン台風の襲来である。

猛烈な雨と風と共に、海岸線一帯に押し寄せた3.6mもの高潮が、戦後復興に邁進しようとしていた矢先の尼崎を踏みにじる。市域の南半分がほぼ浸水。避難所42ヶ所、10万人以上が避難した。死者22人、行方不明6人を含む罹災者は24万1933人にのぼり、当時の市民(28万人)のほぼ全員が被災した。

昭和9年の室戸台風で壊滅状態となった丸島、又兵衛の様子。尼崎市立地域研究史料館所蔵『昭和九年九月二十一日武庫郡大庄村大風水被害實況』より
被災地を視察する六島市長(昭和25年9月4日)

その暴風雨の中、「濁流の中を泳ぐようにして」市役所へと向かったのは、時の尼崎市長・六島誠之助であった。城内の自宅の庭に高潮が押し寄せたのを見て事の重大さを察知し、陣頭指揮をとるべく市役所へと急いだのである。実はその夜、六島は防潮堤建設のための陳情を終え、東京から帰ったばかりであった。なんとも皮肉な話だが、六島の街と市民を思う心は、どこかの総理大臣とは大違いではないか。

ジェーン台風の甚大な被害はしかし、尼崎の夢であった防潮堤が、夢などではなくまさしく切実な問題であることを白日の下に晒した。台風の被害を身をもって味わった六島が道筋をつけた防潮堤建設は、次の市長の阪本勝に引き継がれ、国や県の協力を得て1955(昭和30)年度中にようやく完成を見た。

総工費30億1351万円、OP6~7m、幅5~9m、全長12.4kmに及ぶ巨大な防潮堤の威力は絶大で、1961(昭和36)年の第二室戸台風を含め、その後は高潮による大きな被害を受けていない。台風の被害から今の尼崎を守っているのは、まさに台風による被害と教訓であったことは忘れてはならない。