論:尼崎で散歩の意味を知る 岩松了

私は出身が長崎県で高校を出て一年間博多で浪人生活を送り、東京の大学に入ってからはずっと東京で暮らしているので(住んでるのは横浜市だったりしますが)、関西地区にはほぼ縁がなかったのですが、ピッコロシアターの仕事に関わるようになってからは、しかも2009年からはピッコロ劇団の劇団代表を務めることになったので、たびたび尼崎に足を運ぶようになり、今では故郷の長崎に帰るより尼崎に来ることがはるかに多い、という事態になっています。公演の演出をするとなると二ヶ月くらいを尼崎で過ごすことになりますから、食事をしたりする店にも通じていきますし、2号線だ産業道路だと普通に口にしたりしています。タクシーの運転手さんに何か話しかけられて「ホンマですか!?」と答えてる自分に驚いたこともあります。長い尼崎滞在の時に私の本拠地になるのは阪神尼崎です。尼崎と言えばまず、あの阪神尼崎駅周辺が思い浮かびます。散歩コースもあの駅周辺です。散歩するにはあまりにも生活感満載のゴチャゴチャしてる風景のようですが、あのゴチャゴチャが好きなのでキョロキョロしながら歩いてます。目が合って挨拶するような人もいないので全くよそ者で「私は私。あんたとは関係あれへん」町にそう言われてるように感じられ、この突き放され感がまたこの散歩の醍醐味になってる。

しばらくの滞在になると、東京の知り合いから普通にメールが来たりして、その人はボクが尼崎にいると知らないから、今尼崎にいるんだよと、尼崎の風景の写真を添付して送り返したりします。でも写真だとあのゴチャゴチャがうまく絵に出なくて、何でもない駅周辺の風景になってしまうので要らぬコメントを付け加えたりすることになる。そしてまた別の風景をと、2号線の歩道橋の上でシャッターを切ると、なぜかもう阪神尼崎ではなくなってしまう。まっすぐに伸びる片側二車線の道路、その向こうには真っ青な空。「あの道は神戸に向かっているんだよ」などとコメントをつけると、返信には「キレイ!」などと来るので、これはもう阪神尼崎じゃない!と私自身何をしてるのかわからなくなってしまう。

やがて東京に戻り、いわば通常の生活に戻る私。当然尼崎は遠のくが、たまにテレビの天気予報を見ていて関西地区は~などと言われると、尼崎を歩いている自分を思い出す。その自分は何故か知り合いに写真で送った尼崎の風景の中を歩いていて、要するにあのゴチャゴチャした風景の中にいる自分を頭の中でうまく再現できない。写真の方が記憶に深く刻み込まれ、現実の尼崎は隠されているような感じで、実際に散歩してるときに感じた突き放され感が、写真を介して私に追い打ちをかけているかのよう。それは「ホントの尼崎をおまえは知らない」と言われてることに等しく、私は開き直るしかない。ああそうさ、風景はいつも人間を突き放してゆくのさ。その風景に隠されたものなど、知ることは出来ない。その証拠に今住んでいる横浜の自宅周辺のことだって私は何も知らない。そして思いはあれほど嫌った長崎の田舎にいる自分のことに及ぶ。あれほどここを出たいと思っていた故郷ですら今は、そこにいる自分を思い描くと、嫌った理由がわからない分、その繋がりに必然性を見いだせなくなってくる。それはあたかもどこに居ても迷子にならざるをえない人間の定めのようで、私は不意に知ることになる。そうか、散歩ってのは迷子の記憶を遡る行為に他ならないんじゃないのか?


いわまつりょう
1952年長崎県生まれ。東京外国語大学ロシア語科中退。自由劇場、東京乾電池を経てフリー。2009年から兵庫県立ピッコロ劇団代表。兵庫県立ピッコロ劇団では、地元の話題をすくい上げて創る作品にこだわり、「あまに唄えば」(構成・演出)、「泡-流れつくガレキに語りかけたこと」(作・演出)、「砂壁の部屋」(演出)などを上演。舞台・映画の脚本・出演の他、テレビドラマ(「時効警察」「深夜食堂」「バイプレイヤーズ」など)・CM(「大阪ガス エネファーム」など)への出演でも活躍。2018年7月18~22日には1989年に第33回岸田國士戯曲賞を受賞した『蒲団と達磨』をピッコロシアター大ホールで上演。