サイハッケン 金楽寺町に鳥取砂丘への入り口があった。

明日誰かに話したくなる尼崎南部の知られざる話題をご紹介。情報も募集中!

風雨にさらされかすれた毛筆書体の「民宿案内所」の文字を見ていると、なぜか郷愁で胸がいっぱいになる。

まちを歩いていると、誰が何のために設置したのか分からないものがたくさんある。先日、金楽寺町で、空き店舗の2階に設置された古びた看板を見つけた。「鳥取砂丘民宿連絡所」という毛筆書体。そこには「中嶋」「砂山」という2つの民宿の電話番号が記されていた。興味の赴くままに電話をかけてみるも不通。

なぜ尼崎に鳥取砂丘? ここが連絡所だったの? そもそも民宿連絡所とは? 謎は深まるばかり。地元の方からは「昔はたこ焼き屋だった」「今は倉庫だ」という証言を得るも、肝心の看板のことは誰も知らず。一体、何なのか…。

こんな時は歴史の駆け込み寺、尼崎市立地域研究史料館へ。職員さんに現場の写真を見せても詳細は不明。古い住宅地図からはこの店がパン屋、お好み焼き屋、スナック…と変遷していたことが明らかになった。

しかしそれ以上は分からず、史料館から鳥取県公文書館に照会をかけてもらい、一旦退散。その後、法務局で地番から所有者を調べるも手がかりはつかめなかった。途方に暮れていると、「鳥取県から民宿関係者の連絡先を得た」という情報が。史料館万歳。

教えられた連絡先に電話をすると、そのスナックを経営していたという女性が今も尼崎に住んでいることが明らかに。すぐに彼女に連絡を取り、看板について聞いてみた。

鳥取出身という中嶋久子さん(仮名・64)が尼崎に来たのは集団就職の時代。「昭和55年からは20年ほど、金楽寺町でスナックをしてました。ある日、台風で店の梁が飛んでしまってね。その目隠し代わりに実家の民宿を宣伝する看板を作ったんです。効果? ありましたよ。実際に看板を見て鳥取を訪ねてくれた人もいましたから」と看板の謎を教えてくれた。まるで、鳥取観光親善大使ではないか。

ご近所の評判によると、彼女のスナックは当時すごく流行っていたらしい。そんなに良いお店ならばもう一度店を構えて、今度は鳥取砂丘からのお客さんも尼崎に呼び込んで…というのは、やはり砂上の楼閣であろうか。


取材と文/桂山智哉(法務局ビギナー。窓口で翻弄される男)畠中佳子(収入印紙の使い方を知る女。待合ソファでの座り姿はモナリザのそれ)