尼崎コレクションvol.28《大筒(火矢筒)[おおづつ(かやづつ)]》

尼崎市内に現存している逸品を専門家が徹底解説。あまりお目にかかれない貴重なお宝が歴史を物語る。

尼崎藩の砲術家奥山家に伝えられたとされる大筒。火薬を仕込んだ棒火矢を飛ばし、着地点で大きく燃え上がらせるもので火矢筒とも呼ばれ、射程は1~3㎞といわれる。
上:300目筒(1190cm) 下:100目筒(1030cm)

天明2年(1782)7月4日、この日武庫川の河原は14~15万人の群集で埋め尽くされました。京や大坂をはじめ、近国近在の人びとが尼崎へ押し寄せたため、大坂から尼崎へ渡る神崎の渡し船も大混雑の様相を呈しています。武庫川西岸の土手には1300、東岸の土手には400もの商人の屋台が建ち並び、尼崎藩主松平忠告も甲山を背にこの日のために設けられた河原の仮小屋で見守ります。

この日は、全国にも知られた尼崎の花火が7年ぶりに開催されることから、大勢の人びとが見物に訪れました。この催しは寛保2 (1742)年頃から始まりましたが、不定期に開催されるので、次はいつ見られるか分からないという焦燥にも駆られて、毎回河原を埋め尽くすほどの人が集まるほどの人気を博しました。催しは朝の8~9時頃から始まり、夜10~11時頃まで間断なく続く、丸1日を掛けた大行事でした。

でも、朝から花火?花火は夜空に打ち上げるもののはず。なぜ朝から花火を上げるのでしょう。この催し、実は尼崎藩の砲術師たちが日頃の訓練の成果をお殿様に披露するために開く、大真面目な大筒演武上覧会なのです。朝から行う「町打ち」は、火薬を仕込んだ棒火矢を大筒(写真参照)で飛ばし、いかに的に当てるかを競うもので、花火とは全く異なるものです。

人びとが尼崎の花火と呼び、最も楽しみにしていたのは、その「町打ち」の合間に行われる「合図」と呼ばれる仕掛けの砲術で、昼には上空で破裂した玉から龍に見立てた赤白の絹布が競うように舞い降りたり、あるいは柳、時雨、鴉、筏などに似せた様々な白煙が現れたり、また夜には日・月・星に見立てた火薬が漆黒の夜空を照らしたりと、数多くの火術が繰り広げられる様子は、まるで空中マジックショーでも見ているようだったことでしょう。

しかし、江戸時代の花火に使う黒色火薬は赤と白しか色が出せません。現代のカラフルなものとは違うのですが、当時の人びとにはそれを美しく感じられるセンスと花火の技があったのでしょうね。

平戸藩主だった松浦静山は随筆『甲子夜話』の中で、これは武芸の一つで、大坂で事が起こったことを知らせるための狼煙であると、大坂に対する尼崎藩の役割を冷静に解説していますが、尼崎藩ではわざわざ上演プログラムを作って配布したり、様々な流派が技を競ったりと興行として結構楽しんでいる様子がうかがえます。

文化財収蔵庫

9:00~17:30 土日祝も開館(月曜休館)●南城内10-2 TEL:06-6489-9801


室谷 公一
尼崎市教育委員会学芸員