前尼崎市長稲村和美さんインタビュー そして、自治ラブはつづく

市長辞めてどうするんですか。そんな質問を浴びまくっている前尼崎市長の稲村和美さん。そもそも、どうして市長になろうと思ったのか。3期12年の任期を終えた今、彼女の目に映る尼崎とは…。

市長は一夜にして生まれるものではない。自らを「自治ラブの人」と称する経歴は大学時代にさかのぼる。実家の奈良から神戸大学法学部へ通っていた頃、阪神・淡路大震災が起こった。周辺大学ではボランティアセンターが立ち上がったが、神戸大学は動きが鈍かったという。

そこで「なければ自分で作ればいい」とDIY精神が芽生える。避難所で支援活動をしつつ、神戸大学総合ボランティアセンターを設立し、自ら初代代表となった。「私にとっては自治の訓練でした」と振り返るその当時、被災者の住宅再建のために公的資金を投入する是非についての議論に直面した。

「現行の法律ではできなくても、国民の合意形成があれば制度は変えられる。それこそが政治だと学びました」

尼崎に流れる「自治のDNA」

その頃出会った尼崎市議会議員からの誘いで、事務員バイトとして尼崎市議会に出入りするようになる。「尼崎市議会といえばカラ出張事件(1992年)。議会の不正に市民が立ち上がり議会を解散、さらに自分たちが議員になったという話は強烈なインパクトがありました」と、尼崎に流れる「自治のDNA」に憧れと希望を感じた。

大学院修了後、一度は政治から遠い世界を、と証券会社に就職。4年半の社会人経験を経て尼崎市に戻ってきたのは2002年。「あのカラ出張で立ち上がった白井さんが市長選に出ると聞き、考えていた退職を早めて選挙スタッフになったんです」。

結果は、5つの政党が推薦する現職候補を破り、市民派候補として白井文さんが見事当選。チームの一員として、まさに“私たち”の市長を誕生させたのだった。その後、稲村さん自身も県議会議員選挙に出馬し当選。本格的に政治の道を歩むことになる。

財政オタクの県議として

2期務めた県議時代は一貫して財政問題に取り組んだ。「尼崎市が直面していた危機的な財政状況は兵庫県でも同じでした。財政担当の職員から色々と教えてもらいました」。議員としての立ち位置も独特で、地方議員は会派に所属するのが一般的な中、彼女は無所属を貫いた。「右から左まで、様々な立場の議員と議論できたのは財産ですね」と楽しそうに振り返る。

2010年9月、2期8年務めた尼崎市長の白井文さんが不出馬を発表。厳しい財政再建に取り組みながら、車座集会で市民と直接対話してきた彼女の姿に、「せっかく生まれた新しい動きを無駄にしたくない」と自らが出馬することを決めた。当時全国最年少の女性市長として38才で当選を果たした。

このまちの財産とは何か?

市長就任後は、「本当にお金がなかった」という市の財政再建を引き継ぎ、借金を返すために借金をしていた最悪の状況を食い止め、「なんとか出口が見えるところまでは来た」という。将来世代にツケを回さないという思いで、18園あった市立幼稚園を9園に半減させる中、反対派の声にも向き合っていた。「ワンテーマでこれをやめるか残すかという議論ではなく、幼稚園が閉鎖される代わりに何ができるのか、市としての優先順位を示すよう心がけてきました」という。こうして中学校給食や子ども医療費助成の拡充など、新たに実現したこともある。

任期中に迎えた市制100周年事業では「市はどうせお金ないんやろ」と多くの企業や団体、個人それぞれがこの年を盛り上げようと記念事業を展開してくれた。行政だけではできないことでも、市民と一緒ならできるという体験がこのまちの財産になっていくのを実感してきた。

「市民に色々なニーズがあるように、誰かが勝手に市民の願いを叶えてくれる仕組みなんてない」

大学生、会社員、県議会議員、市長…「立場は違ってもその時々で自分がやっていることの感覚は一緒なんです」。変わらないのは「自治ラブ」の気持ち。

市民に卒業はないから

昨年12月に市長のバトンを松本眞さんに引き継いだ今、考えていることを聞いてみた。これからどうするんですか?

「今度は自分が作った制度を市民として使ってみようと思う。市長は卒業しても市民を卒業したわけじゃないからね」。大学時代に憧れた尼崎に流れる「自治のDNA」は、自ら市長を務めた経験によって、さらに深く刻み込まれたのだった。


取材と文 若狭健作