天﨑道場物語

阪神尼崎駅近く「中央」と呼ばれる歓楽街のはずれ、国道2号の北側に「天﨑講武会(てんざきこうぶかい)」はある。壁面に豪快な内股を決める柔道家があしらわれたビルは「天﨑道場」として市民に親しまれている。しかし、その歴史を知る者は少ない。そこで、奇しくも同じ漢字の名字を持つ編集部員・天﨑仁紹(あまさきじんしょう)が道場を訪ねた。

創設者の天﨑壽円(てんざき じゅえん(または、としまる))さんは、講道館の最高峰となる九段を第一号で認められた柔道家だ。1885年に中在家の西性寺(さいしょうじ)の六男として生まれ、中学卒業後に京都の武術教員養成所で、嘉納治五郎やその弟子から柔道を学んだという。

戦争を乗り越えて

1915年に尼崎へと戻り、城内に天﨑講武会を開いた。1932年には息子の天﨑一二(いちじ)さんとともに東難波町に移転した。戦時中は戦技として奨励された柔道ではあったが、一二さんは陸軍航空気象兵として千島列島へ赴き、その後4年間シベリアに抑留されたという。

道場は空襲で焼失してしまい、柔道そのものがGHQによって禁止された。苦しい状況下ではあったが帰国した一二さんは「屋外に畳を敷いて、裸電球で照らして稽古していたらしい」と娘の天﨑円子(えんこ)さん(70)が亡き父の思い出を教えてくれた。まさに「スポーツ根性」の賜物である。

1932年~44年の天﨑道場(昭和通4丁目)
阪神尼崎駅前(北側)で柔道大会(1950年頃)
京都「武術教員養成所」の親睦会

地元に愛された道場

1950年頃には阪神尼崎駅前で柔道大会が開かれるなど、柔道は戦後の市民にとっての娯楽でもあった。51年には現在の地に道場を再建。当時は平屋の建物で、道端からも道場の様子がよく見えたという。

「稽古中、受け身を取ったら窓越しに道ゆくおっちゃんと目が合った」と振り返るのは道場出身で現在は後進の指導にあたる津川啓太郎さん(37)。地元の人に見守られ、親しまれた道場だったことを物語る。

震災後に建て替わった現在のビルは1995年に竣工したもので、今も2階にある道場で、小学生から大人までの柔道教室が開かれている。

「最も大切にしていることは礼儀です」という津川さん。道場に立ち入る際、柔道に取り組む際、そして道場から立ち去る際の挨拶を欠かさないよう指導する。普段、家ではやんちゃな小学生も、ここでは不思議と礼儀正しいのだとか。

天﨑壽円さん(50歳頃)
天﨑壽円さん、東京オリンピックの翌日にオランダのヘーシング選手一行を連れ尼崎へ“アフターオリンピック大会”開く(『尼崎の体協40年のあゆみ』参照)
父から引き継ぎ道場を発展させた天﨑一二さん

今も轟くテンザキの名

天﨑の名は柔道界でも有名だ。「天﨑」出身の経歴は一目置かれ、実際、私(天﨑)は中学時代の柔道の授業で、名前を伝えただけで柔道部に勧誘された記憶がある。

ちなみに、執筆者の私と天﨑道場の当主は親戚関係にある。しかし、漢字は同じ「天﨑」でも読みは「てんざき」と「あまさき」と異なる。

そのことについても尋ねてみると「壽円さんの同級生に『あまがさき』という名字の人が居て、ややこしいから変えたと聞いています」と円子さん。一方、私は父親から「『あまさき』だと柔道家として弱そうだから『てんざき』に改名したらしい」と聞いてきたが、その情報は間違っているかもしれない。

「祖父はよく冗談を言う人だったので、その話もどこまで本当かな……」と懐かしそうに笑う円子さん。

名字の謎はますます深まるばかりだが、厳格ながらもユーモアにあふれる柔道家・天﨑壽円さんが築いた道場の名は、今も柔道界に轟いていたのだった。

1951年に再建された天﨑道場
1995年に竣工した現在の道場(天﨑ビル)

(写真提供)
天﨑講武会
あまがさきアーカイブズ
(参考資料)
毎日新聞1999年10月9日阪神版特集「大胆仮説 尼崎は闘う街だ!」
毎日新聞2004年11月25日阪神版連載「ノスタルジック人生劇場」
市報あまがさき1955年12月20日市民随筆


取材と文 天﨑仁紹