杭瀬は尼崎ではない?

人懐っこい、庶民的、気取らない、ディープ、などなど。いわゆる尼らしさを称えられながらも、杭瀬は尼崎市の中でも独特の地域性を放っている。その理由は実はこの街の成り立ちにあった。

尼崎市域図(明治42年測図)

「うちは小田村やからな」。杭瀬の旧い人たちはことあるごとにそう言う。時に自らの連帯を示すために「杭瀬村」とも呼ぶし、さらに酔いがまわると「尼崎から頼まれて合併したったんや」とまで豪語する。ほんまかいな、と思いながらもここはちょっと史実をおさえておこう。

「杭瀬」という地名の初出は平安時代後期(1099年)。「杭瀬嶋」として猪名川、神崎川の河口の砂州に浮かぶ島としての記録が残る。鎌倉時代から400年の間で農耕や漁業の地として発展し、13~14世紀には交通や流通の地としてにぎわうようになった。江戸時代になると「杭瀬村」として所領され、川の氾濫に悩む地域であったが、戸田氏鉄による左門殿川の開削により土地が安定するようになった。

杭瀬村を含む小田村南部は、明治に入ると大阪の工業化がにじみだすように、紡績や製紙工場が立地する。明治38年には阪神電車が開通し都市化がすすみ、昭和元年には阪神国道(現在の国道2号)が開通、今の商店街や市場が広がる地域に新しい街が生まれるようになった。昭和10年の人口統計によると隣の尼崎市の人口71,072人に対して、小田村は54,484人と引けをとらない。

そんな中、尼崎市側から都市基盤の整備などの効率化を目的として市と村の合併話が持ちかけられる。これに小田村は猛反発。合併推進派の議員の自宅に反対派が押しかけて日本刀を畳に突き刺す、という荒々しい証言も残っている。すったもんだの末、昭和11年に実現したのは「解消合併」。いずれの市も村も一旦なくして一から市を作るという、事実上の対等合併である。尼崎市章に小田村の「小」の文字が刻まれていることがその重みを示している。

中央商店街が本町商店街(現在の国道43号)から移転し、三和や新三和商店街が戦後の闇市から発展してきたのに対して、杭瀬では戦前から形成されていた商店街や市場がそのままの場所で、さらに戦後復興一番乗りを果たしている。尼崎のようで尼崎でない、独自のシビックプライドの源流はそんなところにあるのかもしれない。


参考資料:
『私たちのまち杭瀬のあゆみ~木ノ元を中心とした~』(杭瀬冠頭中会、2000年)
『図説尼崎の歴史下巻』(尼崎市立地域研究史料館)