尼崎コレクションvol.32《杭瀬ダンスホールのチケット(くいせだんすほーるのちけっと)》

尼崎市内に現存している逸品を専門家が徹底解説。あまりお目にかかれない貴重なお宝が歴史を物語る。

天国へのチケット

[作品のみどころ] 尼崎には4つのダンスホールが所在した以外に、『ダンス時代』と『ダンスファン』の2つの社交ダンス雑誌の発行所もありました。まさに尼崎は社交ダンス天国だったのです。

本誌第37号の尼崎コレクションvol.09で『尼崎ダンスホールの手水鉢』を紹介したのはもう9年前になりますが、本号は杭瀬特集とのことですので、久しぶりに尼崎、それも杭瀬に昭和戦前期に所在したダンスホールについて紹介しようと思います。

1927(昭和2)年に阪神国道(現在の国道2号)が開通すると、大阪ではダンスホールの設置が許可されなかったこともあり、大阪から左門殿川を越えればすぐの場所にある小田村と尼崎市の阪神国道沿線にダンスホールが次々に4か所も開設されました。その4か所とは、西から阪神尼崎駅北に所在した「尼崎ダンスホール」、大物に所在した「キングホール」、東長洲に所在した「ダンスパレス」、そして杭瀬に所在した「阪神社交クラブ杭瀬ダンスホール」でした。このうち杭瀬ダンスホールは1928(昭和3)年11月(一説には翌昭和4年1月)に開業しましたが、経営者間でのいざこざが起こり警察沙汰にもなったため、結局、1932(昭和7)年8月に身売りをすることになったようです。

写真で紹介したチケットは、この杭瀬ダンスホール時代のものです。しかし、身売りはうまく進まず、同年10月、杭瀬ダンスホールは営業を停止し、翌昭和8年になって、ダンスパレスの支配人をしていた高橋虎男が経営権を取得し、同年5月から名称を「ダンスタイガー」に変更して営業を再開しました。虎男の名前から「タイガー」と名付けたものと思われます。元々、ダンスホールで支配人をしていた方ですので、ダンスホール経営に関する手腕は優れていたようで、同年11月には上記の国道4ホール合同で「尼崎ダンス祭り」を開催するなど、国道4ホールの発展に力を尽くしました。ダンスタイガーの跡地は現在、ハイツや駐車場などになっており、その場所に華やかなダンスホールがあったことは今では一切わかりません。昭和戦前期のたった10年余りだけ存在した「尼崎モダニズムの華」、それがダンスホールだったのです。


桃谷和則
尼崎市教育委員会学芸員 尼崎市立文化財収蔵庫をリニューアルした新博物館の工事は順調に進んでいます。