論:尼に伝わる不思議な話 園田学園女子大学教授 大江篤
尼崎の血天井
博物学者で有名な南方熊楠が、随筆「幽霊の手足印」のなかで次のような話を書き残している。
予幼少の時亡母に聞いたのは、摂津の尼崎の某寺堂の天井におびただしく幽霊の血つきの足跡が付いたのを見た。戦争とか災難とかで死んで浮かばれぬ輩が天井の上を歩く足跡と聞いた、と言われた。
尼崎の寺に血天井があったという。血天井は京都のものが有名である。養源院(東山区)、源光庵(北区)等、数か所の寺院に現存する。慶長5年(1600)に伏見桃山城が落城した際、自刃した鳥居元忠らの亡骸が放置され、その血痕の残る廊下板を使って作られた天井が残されている。寺院の天井にすることが、亡くなった者たちへの供養になると考えられたのであろう。熊楠の話しの寺院が尼崎のどこであるかはわからない。しかし、尼崎も数々の戦乱の舞台となっている。幽霊の手足は、かつての戦いの歴史と非業の死を遂げた者たちへの記憶を思い起こさせる装置であったにちがいない。
残念さんの墓参り
幕末にも尼崎で無念の死を遂げた者がいた。長州藩士山本文之助である。
文之助は、元治元年(1864)に尊王攘夷を唱える長州と薩摩・会津などが京都で戦った禁門の変(蛤御門の変)に敗れ、落ちのびる途次、尼崎藩に捕えられ自害した。翌年にはその噂が広まり、幕府に反感を持つ人びとの同情を受け、流行神(はやりがみ)となり、大坂から多くの人が墓参りをし、砂を持ち帰ったという記録がある。
文之助は、わずか四万石の大名に捕まったことが「残念」で口惜しい思いをしたので、もし口惜しいことがあれば一つの願いだけは叶えてやろうと書置きをして切腹したと伝えられ、病気平癒なかでも歯痛に効き目があるといわれている。今でも残念さんに願い事を聞き届けてもらおうとお参りをし、お守りを求める人が後を絶たない。名もない青年の敗死が、現代まで様々な怪異や霊験とともに語り伝えられている。
オイテケ池の河童
また、尼崎市にはお化けが出現した話もある。「尼崎郷土史研究会々報 みちしるべ」33号(2005年)の尼崎伝説特集に次のようにある。
次屋3丁目の下畔公園の北側に、昭和29年頃まで大きな池があった。数百年も昔、この池に河童がいて、夜、通る人に「オイテケー、オイテケー」と叫んだそうだ。それを聞くと、食べ物などを池の側の大石の上に置いて逃げないと熱病にかかって死ぬ、と言われていた。
困った村長が、河童退治に賞金を懸けたところ、強そうな武士が来て、池のほとりの大石の上に食べ物を置き、河童が現れるのを待った。やがて河童が食べ物を取りに来た。武士は一刀のもとに河童の右手を切り落とし、賞金をもらって立ち去った。
しかし、何年もしないうちに、また河童が現れたという。
江戸の本所七不思議の一つ、「おいてけ堀」の話しにも似ているが、河童が出没する池の伝承があった。池が無くなってしまった今では語られる機会も少ない。しかし、この話しから、かつてそこが池であったことを知ることができる。また、全国の河童の伝承をみると、子どもが水難事故に遭いそうな危険な淵が河童の出るところであり、危険な場所に行ってはいけないというしつけとして語られていたともいえよう。
地域社会と怪異譚
こうした不思議な話は、かつてはコミュニティのなかで社会的な機能を果たすものであった。地域の知られざる土地の歴史を語る話であったり、子どもたちが危険な所への近づかないように注意を喚起する話であったりする。また、命の大切さや人としてやってはいけないことを教える話も数多く伝えられている。
少子高齢化が進み、地域のつながりが希薄になりつつある現代だからこそ、地域に伝わる不思議な話を発掘し、次世代に伝えることで、世代間の絆を回復させてゆく必要があるのではないか。そのことが、地域社会の活性化に繋がっていくように思われる。
おおえあつし
1961年神戸市生まれ。関西学院大学大学院修了。博士(歴史学)。園田学園女子大学人間教育学部教授。東アジア恠異学会代表。歴史民俗学専攻。現在、尼崎市域をフィールドに地域資源を活用したまちづくりモデルの構築を研究中。著書に『日本古代の神と霊』(臨川書店、2007年)。編著書に、『怪異学の可能性』(角川書店、2009年)『怪異学入門』(岩田書院、2012年)などがある。