尼崎コレクションvol.19《ディアナ号復元模型》

尼崎市内に現存している逸品を専門家が徹底解説。あまりお目にかかれない貴重なお宝が歴史を物語る。

尼崎沖に黒船がやってきた

48分の1縮尺 全長約2メートル

嘉永6(1853)年6月、ペリー率いるアメリカ東インド艦隊の艦船4隻が浦賀沖に来航し日本に開国を求めた、いわゆる「黒船来航」から激動の幕末史が始まることは誰もが良く知っている歴史ですね。では、同じ時期にロシアの艦船が大阪湾に来航し、日本に開国を求めたことはご存知でしょうか。

1852年、ロシア海軍中将プチャーチンは皇帝ニコライ1世から遣日全権使節として日本との条約締結を平和的に行うことを命令されました。そこで、プチャーチンは翌嘉永6(1853)年7月、まず長崎に来航しましたが本国の事情で一旦退き、翌嘉永7年8月、今度はロシアの最新鋭フリゲート艦であったディアナ号1隻だけで函館に来航しました。しかし、幕府に同地での条約交渉を拒否されたため、プチャーチンはここで思い切った手に出ました。当時の幕府の海外交渉の拠点であった伊豆の下田ではなく、何と大阪湾に向かったのでした。同年9月18日、大阪の天保山沖に停泊したディアナ号は、小舟を出して尼崎沖の測量を行うなどして約半月間停泊を続けました。この間、幕府は西国諸大名に大阪湾岸の警護を命じ、尼崎藩も警護のために出兵しました。結局、幕府の要請でディアナ号は下田に回航し、同年10月14日下田に到着、プチャーチンはようやく条約交渉に席に着きました。

しかし、ここでディアナ号に悲劇が襲いました。11月4日に発生した東海地震の津波で大破してしまったのです。何とか自力航行できたのでディアナ号は修理を行うため伊豆の戸田(へだ)に向かいましたが、今度は強い風雨のため11月27日、遂にディアナ号は戸田沖で沈没してしまいました。

その後、日本との条約交渉をまとめたプチャーチンは、日本の船大工が建造した国産第一号の洋式艦船である「ヘダ号」で帰国の途に着きました。ディアナ号の大阪湾来航は、言わば「関西版黒船来航」「尼崎版黒船来航」であり、尼崎の幕末史の始まりを告げる重要なできごとでした。そこで、計画中だった歴史博物館の展示資料として今からもう20年も前に製作したのがこのディアナ号復元模型です。

常設展示スタート 文化財収蔵庫

これまで、展覧会の際に何度か短期間だけ公開したことはありましたが普段は「お蔵入り」でした。しかし…! 昨年秋からは文化財収蔵庫で常設展示していますので、ぜひ、ご観覧ください。9:00~17:30 4月からは土日祝も開館(月曜が休館に)入館無料●南城内10-2 TEL:06-6489-9801


桃谷和則
尼崎市教育委員会学芸員 文化財収蔵庫は4月から土日祝日も開館することになりました。ぜひ、ご来館くださいね