琉球民謡とは即ち尼崎ブルースだ。

登川誠仁と知名定男。沖縄民謡を代表する2人の唄者は、ともに尼崎と浅からぬ縁を持つ。師弟でもある彼らの唄に、アマの記憶は宿っているだろうか。

『登川誠仁&知名定男』

「記憶にあるのは尼崎の長洲からです。五つか六つくらいの頃。僕の最初の記憶は、杭瀬小学校で三線を弾かされた事です」。今年出版された自伝『うたまーい』(岩波書店)の中で、知名定男はこう語っている。

知名の父親は同胞の間では有名な唄上手で、弟子を取って琉球の古典を教えていた。毎晩聞こえる稽古の音に「天才少年」の素養は磨かれた。県人会の集まりで三線を弾き、6、7歳で初めてのレコーディング。沖縄芝居の子役で巡業にも出た。

だが、暮らしは楽ではなかった。厳しい差別もあり、父はなかなか定職に就けなかった。父の弟子が稽古後に自分の島の唄を口ずさむのを聞き、子供ながらに哀愁を感じたという。終戦まもないころ。故郷を遠く離れ、誰もが胸のうちにブルースを抱えていた。11歳の夏、知名は父と命懸けの密航で沖縄へ帰る。

一方、昭和ひとケタ世代の登川誠仁は尼崎生まれだが、すぐ大阪へ移り、さらに戦前に沖縄へ戻ったため、記憶は薄い。尼崎との関わりが深まるのは後年、登川流民謡研究所の支部を開いてからのこと。弟子たちの公演にたびたび招かれ、いぶし銀の塩辛声と早弾きを披露した。

沖縄で出会った2人はすぐに師弟関係を結び、以後半世紀を歩んできた。2004年リリースの『登川誠仁&知名定男』は、尼崎ゆかりの2人が「スーキカンナー」「新デンサー節」などのスタンダードを伸び伸びと楽しんでいる好盤。入門編にも最適だ。

尼崎ゆかりのオキナワンミュージック

『ハイヌミカゼ』元ちとせ
シマウタとはもともと沖縄=島の唄ではなく、奄美の集落=村の唄を指していた。小さな唄からうたいはじめ、今では平和への祈りを歌う天才少女も、かつて尼崎に住んでいた。
『園田エイサー』沖縄市園田青年会
尼崎の地名?ではなく、「そんだ」と読むが、なんとなく親近感が…。沖縄全島エイサーまつり最多出場、同コンクール最多優勝。怒涛の全11曲メドレーで、おなじみの民謡を網羅。
『CHABA』CHABA
ギターの平野(尼崎出身)と三線の比嘉(沖縄出身)による優しく懐かしい音にはザ・ブームの宮沢和史等ミュージシャンのファンも多い。鹿嶋を加え2004年にメジャーデビュー。