マチノモノサシ no.5 臨海地域の年間地盤沈下量

尼崎にまつわる「数」を掘り下げ、「まち」を考えてみる。

1年で1センチ沈む地盤

海抜ゼロメートル地帯―。臨海部からJR東海道線付近までの尼崎市南部は海水面よりも土地が低い。普段の生活で「低さ」を感じることはほとんどないけれど、これって実はかなり危険な状態なのだそうだ。

「昭和25年のジェーン台風はそらすごかった」と語る年配の人は多い。市内の死者・行方不明者28人、家屋流出196戸、OP(大阪湾平均潮位)3.8m。壮絶な高潮による罹災者数は24万人にも上った。臨海部の工業地帯だけでなく、小田地区では東海道線付近も浸水。まさに尼崎の南部が“沈没”してしまった。

被害を拡大させた原因は、急速に進行する地盤沈下。社会科の教科書でも紹介され、尼崎の名は悪い意味で一躍有名になった。臨海部の軟弱な地盤にある工場が地下水を大量に汲み上げ、昭和30年代には1年間で土地がなんと20cmも沈下。現在は工業用水道が整備され、ほとんどの地域で沈下は止まったものの、海岸部ではいまだに1cmずつ沈み続けているという。

どのくらい地盤沈下しているのかを計測する基準点(標石)が市内各地に設置されている。現在尼崎で最も低い場所は昭和通2丁目6番でOPマイナス0.16m。臨海部の南端には海に沈んだ土地もあるらしい。

「戦後初期の尼崎行政は水害との戦いでした」というのは尼崎市立地域研究史料館の辻川敦館長。全長14.7kmの防潮堤、日本最大の閘門などのインフラ整備の影響で巨額の借金を抱え、尼崎市は昭和31年に地方財政再建団体へと転落したほどだ。それでも、防災効果への市民の期待感は強く、南竹谷町にある松和堂では「防潮堤煎餅」なる珍名物が生まれたりした。

まちなかの建物にも水害への備えが見られる。尼崎総合文化センターの正面玄関が、高さ約4mの階段を登ったところにあるのは浸水対策だというし、中在家や寺町、城内で、地面から数十cm嵩上げされた住宅が多いのもそのためだ。「昔は梅雨の時期はしょっちゅう家が浸かっていた」と築地の住民。阪神大震災で液状化による被害が大きかった同地区では、地盤全体を約2m嵩上げするため、復興まで12年かかった。

昨年8月には1時間に90ミリという途方もない集中豪雨が尼崎を襲った。ポンプ場(排水場)の能力の2倍にも及ぶ雨量で、市域の一部が浸水した。でも、予想をはるかに上回る天災に対して磐石のハードを整えるにはいくらお金があっても足りない。市内すべてのポンプ場を昨年並みの豪雨に対応させるには1千億円規模の投資になってしまうそうだ。

では、当面どんな対策が打てるのだろう。

尼崎市は昨年、水害時の浸水予想図と避難場所を示した防災マップを全戸に配布した。マップは、ほぼ全域が水色に塗られている。市民としては少しショックだが、市防災対策課は「自分の家はどうか、身近な問題として知り、避難などに備えてほしい」と呼び掛ける。

工都の繁栄が生み出したゼロメートル地帯というもう一つの公害。この土地とこれからも上手くやっていくには、月並みだけれど「日ごろの備え」という心構えが結局求められる、ということなのだろう。■尼崎南部再生研究室

ゼロメートル地帯って?

平均満潮時に海水面より土地の高さが低い地帯は市域の40%を占める。

※出典:『国土交通省近畿地方整備局ホームページ』大阪湾環境データベースを元に作図