沖縄より沖縄らしい? 尼崎ウチナーンチュの暮らし

戦前から、阪神地区には多くの沖縄出身者が出稼ぎなどで集まっていた*1。コミュニティができるにつれ、多くの同郷者が移り住み、助け合って生活した。島の伝統につながる独自の文化が、大切にはぐくまれた。ここでは暮らしの視点で「尼崎の沖縄」をひもといてみたい。

エコシステムの先駆者

昔の沖縄の家にあった豚便所の跡

尼崎で養豚場を開いた人には沖縄出身者が多かった*2。沖縄には伝統的な養豚技術があるからだ。戦後復興につれ飲食店や企業・寮の食堂から大量の残飯が出、それをリヤカーなどで集めて餌にした。ブタの排出物は、戦後の肥料不足の中で芋や野菜の肥料となった*3

神崎川沿いの戸ノ内地区には、河川敷で製炭業を始める者もいた*4。製炭組合も作られ、戦前の統制経済下では農林省の許可も得たという。廃船や川に捨てられた木板、火災の廃材を集めてカラケシやタドンを作り、大阪などで売った。戦後にガスが普及するまで続いた。

このように、沖縄出身者には都市の廃棄物を再利用した循環システムを作り自立した人が多くいた*5。廃材や食べ物を無駄にせず、ゴミを出さないエコシステムだ。そこには、就職時など沖縄出身者に対する差別的待遇もあり、自立を余儀なくされたことを忘れてはなるまい。

自然・祖先・人

沖縄の各家庭の台所に祀られている「火の神(ヒヌカン)」。戸ノ内在住の沖縄2世に聞くと、近所の沖縄系家庭にはどこも火の神があるという*6。宗教ではなく、自然の恵みに対する感謝心といった方がよいだろう。

あの世や先祖にもあてはまる概念だ。沖縄では「十六日(ジュウルクニチ)」や「清明祭(シーミー)」、旧盆などで、先祖と飲食を共にする行事が各家庭で盛大に行われる。自然神や先祖とのつながりの深さは、沖縄県民共通のものだ*7

この世でのつながりでいえば、「模合(モアイ)」*8がある。沖縄では世代を問わず広く行われる。月1回、メンバーが集まって一定のお金を出し合い、その月の「親」がまとまった金額を受け取る。尼崎でも行われており、友人の話では参加者はやはり沖縄出身者か子弟で、沖縄系でも尼崎生まれでは仕組みを理解するのに苦労するという。

台所に祀るヒヌカン(簡易的なもの)
先祖行事に使うウチカビ(あの世のお金)と黒線香

沖縄より沖縄らしい

魔除けのシーサー

沖縄出身者の家庭では、昔からよくゴーヤーやナーベーラー*9を育てた。収穫後、地域でおすそ分けされることもある。庭先で成長する姿から見ているので、おいしさもひときわだそうだ。沖縄方言も日常的に使われる。2、3代目は尼崎言葉を話すが、最近は沖縄方言や舞踊、民謡への関心も高い。子や孫が学ぶ姿は、かつての苦しい時代を経験した世代の大きな喜びだ。

こうした「尼崎の沖縄」は、沖縄より沖縄らしく見える。那覇など都市部では「本土化」が進み、方言を話せる若者はほとんどいない。舞踊や三線も、進学や就職で本土に出て初めて沖縄の文化の素晴らしさに気づき、始める人が多いのが現状だ。尼崎の飲み屋でしばしば耳にした「情け歌」と呼ばれる沖縄新民謡*10は、当の沖縄ではあまり聞いたことがない。

沖縄文化であり、尼崎の文化

尼崎での沖縄出身者の暮らしや生活習慣は、沖縄文化であるとともに尼崎の市民文化のひとつだ。苦労に苦労を重ね、昼も夜も働き、しかし決して故郷沖縄のことを忘れることなく生活基盤を作ってきた営みの蓄積である。東京では、沖縄ブームに乗って、沖縄とは縁もゆかりもない商店街を「沖縄タウン」に作り変えた町おこし事例がある*11。「尼崎の沖縄」は世の中の安易な動きに流されず、先人の沖縄出身者の苦労を伝えながらこれからも尼崎と沖縄の両アイデンティティを培ってほしい。沖縄出身者が多かった地域も世代交代につれ拡散・融合する傾向にあるが、いつまでも自然や祖先、人とのつながりを大切にするチムジュラサン(心優しい)地域であり続けることを願う。


尼崎と沖縄をつなぐキーワード

*1 戦前、重工業や軍需産業で日本最大の工業地帯だった阪神工業地帯は、各地から大量の労働力を吸収した。出稼ぎや戦時徴用工で本土に来ていた沖縄出身者は終戦後、沖縄戦で故郷が焦土と化したうえ米軍に占領され、航路も途絶し帰る場を失った者が多かった。

*2 沖縄県民にとって、ブタは家族の一員のような存在だった。昔の沖縄の屋敷内には便所に隣接して豚小屋があり、人間の排泄物やゴミは豚小屋と畑へ、ブタの排出物は畑へというエコシステムがあった。

*3 当時、市内在住の在日コリアンにドブロクの酒粕をもらいにいってエサにしたという。ブタにとって栄養価が高く、よく太った。沖縄では、戦後しばらくまで泡盛の製造でできる酒粕を豚のエサや畑の肥料にしていた。

*4 多くは沖縄本島北部の本部(もとぶ)出身者だった。現在は「美ら海水族館」が有名。北部の山林ではかつて炭焼き業が盛んで、その技術を尼崎で生かしたと考えられる。現在もヤンバルの山には炭焼き窯跡が残る。沖縄の製塩業にも炭焼きに似た工程があり、戸ノ内の製炭業に役立ったという。

*5 炭焼き小屋や畜舎の建設技術が必要だが、沖縄には「ユイ」という相互扶助精神があり、家屋や作業所は地域で協力して建てるため、建築や土木などの基礎技能を持つ人が多かった。

*6 通常、米や塩、水、酒、神木などを供える。旧正月など節目の行事ごとに拝まれる。非常にフレンドリーな民間信仰で、関西の家庭で見かける「へっついさん」(かまどの神さん)と考え方が似ているかもしれない。

*7 昨夏の甲子園に出場した八重山商工チームが旧盆の日に勝利した時、ナインのコメントは際立っていた。一様に「ご先祖さまが勝たせてくれた」と喜びを表現した。それくらい沖縄県民と先祖との交流は日常的に深い。

*8 ムエーともいう。地域での利益の共同配分がベースとか。沖縄では、「今夜はモアイですから」といえば残業は免除されることになっている。尼崎では、沖縄県出身者が経営する飲食店の集客として行われるケースもある。

*9 食用のヘチマ。方言は「鍋洗い」の意。豆腐と味噌で煮込むのが一般的(ナーベーラーンブシー)。

*10 比較的新しい時代に作られた沖縄民謡。戦時中や戦後の苦闘、日常生活、出稼ぎや労働、家族や夫婦、恋人など沖縄県民の身近な暮らしを歌ったものが多い。現在も日々作られている。

*11 2005年に突如出現した、杉並区和泉明店街「沖縄タウン」。活性化のためなら、その地域の文化を生かすより他地域の文化を「おいしいとこ取り」して乗り換えてしまう発想は、「尼崎の沖縄」の視点で見ると違和感を覚えざるをえない。「東京発信」モノの危うさを感じる。


稲垣暁●いながきさとる
1960年神戸市生まれ。沖縄大学地域研究所特別研究員(「沖縄×兵庫交流史」「沖縄南部の地域づくり×集客交流」がフィールド)。フリー記者。美ら島沖縄大使。元毎日新聞記者、宣伝課長。「アマ歴」は、市内の私立幼稚園を卒園など。