論:さらば いとしき尼崎 獨木舟(まるきぶね)店主 田中 元三

白壁に黒格子の味わい深い外観、一杯一杯サイフォンで丁寧に入れた珈琲の味は、尼崎のちょっとした自慢だった。ご主人とのおしゃべりを楽しみに来る客も多く、尼崎の「文学サロン」としても知られた名店が5月、閉店した。阪神尼崎駅の南で過ごした42年の想いを綴っていただいた。

昭和25年(ジェーン台風の年)の暮れ、かつて少年時代を過ごしたことのある大阪の福島区からは、阪神電車の急行でひと駅西へ寄っただけの尼崎に、偶々(たまたま)、私は住むことになります。大学1年生の時でした。

文明の負を賄ってきた町

公害の町、暴力の町と喧伝された、尼崎の雰囲気は、一応想像の範囲内でしたが、こうした悪評は、隣接する大都会の排除する文明の負の部分を賄(まかな)う隣り町の宿命かもしれません。

むかし、風紀紊乱(びんらん)の虞(おそれ)ありとして、大阪市が条例で許可しなかったから、尼崎にはダンスホールが沢山(たくさん)できた、と聞いたことがあります。

自足した暮しを地元で

この地域性の違いにはっきり気が付いたのは、私がそこに住みついてからです。

まわりをよく見ると、大抵の人が尼崎で買物を済ませ、近くの尼崎の店に食事に出かけ、地元の尼崎で映画を見ます。

尼崎に住む人たちは、「尼崎」という独立した生活圏の中で、自足した暮しを営んでいるのです。これは新しい発見でした。

後に知り合うことになる多くの人が、同じ地元の「尼中」(現在の県立尼崎高校)の出身であることも、大阪で学校生活の大半を送った者には、やはり一寸した驚きでした。

42年の珈琲店に幕

大都会の猥雑な異物を呑み込んでしまう、旺盛な体力と、地方色の濃い、自立した世界を保っている旧城下町の潜在的な求心力!その不思議なバランスの中で息づいているまち「尼崎」。

そんな尼崎で、私は結婚し、子供をつくり、昭和40年、「獨木舟」という風変わりな名前の珈琲店をはじめたのです。

42年余りつづけたその「獨木舟」が、今年の4月、取り壊されることに決まりました。「阪神尼崎駅南地区市街地再開発計画」に組み入れられたからです。

◇ ◇

昭和40年代の後半に入ると、いわゆる重厚長大産業の衰微に象徴される、経済環境の変化をうけて、公害の元凶でもあった南部の工場が次々と撤退して行きました。

結果的に、尼崎は公害都市の病根を取り除くことはできたのですが、一方で、多くの人口を養ったあの旺盛な体力を消耗してしまいました。

一般の生活スタイルの変化とともに、すべてを尼崎でまかなう地元の意識もうすれてきています。

自前の生活圏が拡散し、地方色が褪せれば、城下町としての求心力も機能しません。

このままでは「尼崎」は溶解する!

しかし、古い街を壊して、高層ビルに建て替える在来の再開発の手法で、街はほんとうに再生するのでしょうか。

時代はすでに、文明の未来に希望を抱いていません。まして、「尼崎」に近代都市の衣装は似合わない。

町の再生を願って

都市は得体の知れない、そして繊細な生きものです。文化が衰弱すれば、都市は荒廃します。

固有の歴史的な基盤の上に、春の芽吹きの予感にみちた、どの様な文化を創造することができるか。それが、これからの都市の課題だと思います。

「獨木舟」を育ててくれた「尼崎」への敬意と感謝をこめて、息のながい町の再生を願っています。


獨木舟

阪神尼崎駅の南。民芸調で統一された年季の入った店内では、「獨木舟文学館」と題して文学作品の朗読会、音楽会、展覧会、時にはオペラの上演まで不定期で開催されてきた。お店が無くなった今も、田中さんを中心にした人の輪が途切れることはないだろう。