論:出郷者たちの尼崎 尼崎市の県人会と産業郷土会館関西学院大学文学部 山口覚

尼崎在住ほぼ四半世紀、ギャンブル専門女性記者の是石真紀さん。園田競馬と尼崎競艇を行ったり来たりの日々に想う「尼とギャンブル2017」エッセイを綴ってもらいました。

尼崎市内を歩いていると飲食店などで「鹿児島」や「沖縄」や旧国名の「土佐」、あるいは奄美大島に近い加計呂麻島からとったであろう「かけろま」や長崎県の島である「壱岐」といった兵庫県外の地名をしばしば目にする。そうした地名が店の名前になっていたり、看板にさりげなく地名が記されていることもある。コリアンや中国系の人々の店も多数ある。出郷者が数多く集まっている土地では同郷者を相手にした「エスニック・ビジネス」が発達する。尼崎市民の多くは全国(特に西日本)からの、あるいはアジアや世界各地からの出郷者であり、その子孫である。尼崎市は「出郷者の町」なのである。

たとえば小説家の車谷長吉は尼崎市を舞台に描いた『赤目四十八瀧心中未遂』で次のように記している。

「職を求めて来た鹿児島県人沖縄県人、あるいは朝鮮人が、人口の2割を占めるという土地柄である。……近代の都市はどこもみな、職を求めて流れ込んできた流人たちの掃寄せ場という性質を隠し持っているが、尼ヶ崎はこの隠された本質がむき出しになった市(まち)とも言えよう」

よそものへのやさしさ

もっとも、尼崎市に居住してきた出郷者の多くは個々バラバラにやって来た「流人」ではない。まず第一に、先に尼崎市に定着した家族・親族を頼って「連鎖移住」というかたちでやって来る者が多かった。近在に同郷者もいれば職住も保証されていた。さらには戦後・高度成長期には尼崎市自体が県外で人集めをおこなった。集団就職の一環としてなされた「求職開拓」と呼ばれるものであり、人不足であった同時期において、出郷者に手厚い町として西日本各地で自市をPRしたのであった。市長自らが九州・四国をめぐって夜間学校の無償化などを語りながら若者たちに自市への来訪を呼びかけたこともあった。

大物公園の日本列島

大物公園の航空写真 Google earth より

尼崎市が出郷者を大切にする町であることを示す最たるPR材料が「尼崎市各県人会連合会」の設立であり、元々は県人会館として東大物町に計画された「産業郷土会館」、現「ふるさと交流会館」の建設であった。1970年のことである。連合会は「産業郷土会館まつり」を毎年開催してきた。さらに尼崎市は各都道府県に対して「県の木」の苗木を提供するよう呼びかけた。その苗木は産業郷土会館の南に日本列島のかたちで並べられた。「ふるさとの森」である。グーグルの空中写真でも列島状の森を見ることができる。出郷者の町には日本列島がある。

県人会活動の現在(いま)

当初21県人会で開始された尼崎市各県人会連合会は現在では沖縄県人会兵庫県本部、尼崎鹿児島県人会、尼崎奄美会、尼崎高知系県人会、尼崎島根県人会、尼崎岡山県人会の6県人会が加盟するだけになってしまった(尼崎奄美会は県人会相当として扱われている)。出郷者一世の高齢化などによって県人会活動はいささか弱くなってきた。

それでも「産業郷土会館まつり(現ふるさと交流会館まつり)」は継続して実施されている。2010年9月19日の第40回のまつりを訪れてみた。尼崎市副市長や鹿児島県大阪事務所長による挨拶、少年たちによる沖縄のエイサーからスタートし、演芸会では各県人会員の歌舞が披露された。物産店も盛況であった。しかし2ケタの県人会が関与し、現在の数倍の物産店が置かれていたかつての大盛況からすれば、少しばかり寂しくもなった。

出郷者の遺産を活かす

ふるさと全国県人会まつり

全国的に見れば21世紀になってから開始され、ますます活発になっている県人会関連のイベントもある。2010年に第10回を迎えた名古屋市の「ふるさと全国県人会まつり」は例年10万人以上を集めている。主催者の「全国県人会東海地区連絡協議会」は1978年に愛知県知事の発案で組織されたものであり、最近設立されたばかりの中部千葉県人会なども含め37道県人会が加盟する。これらの県人会が中心となって80以上の観光物産ブースを置き、膨大な数の人々がひっきりなしに各ブースを訪れる。

尼崎市でも今なお元気な県人会があり、出郷者の遺産も町の至る所に見え隠れしている。産業郷土会館、現在のふるさと交流会館はその中核である。名古屋市のそれのように出郷者の遺産をさらに上手く活用する方法が尼崎市にもあるのかもしれない。


やまぐちさとし

尼崎市の出郷者に関心を持ち始めて15年以上になる。その内容は『出郷者たちの都市空間』(ミネルヴァ書房)にまとめた。現在ではアレックス・ヘイリーの『ルーツ』など「先祖」をめぐる調査実践にも関心を持っている。関西学院大学文学部教授。