尼崎は江戸時代から絵になる町並みだったのか。

江戸時代の大ヒット“街本(まちぼん)”『摂津名所図会(せっつめいしょずえ)』

(1796~98年刊行・全9巻12冊)。実際に現地を歩いたと思われる絵師・竹原春朝斎による正確な筆致が人気の秘密だったとか。街道筋の整備が進み、自由に旅行ができるようになった庶民の旺盛な好奇心を満たした。他の図版も気になる方は図書館でどうぞ。

江戸時代に出版された観光ガイド本のベストセラー『摂津名所図会』で、古きよき尼崎の姿の絵を発見した。

「1700年頃をピークに尼崎藩は徐々に活気を失っていくんですが、その最後のいい時代が描かれています」と尼崎市教育委員会学芸員の室谷公一さんも少し自慢げ。『尼崎』と題した絵(上)は、尼崎城から広がる城下の町並みが描かれている。長遠寺の多宝塔をはじめ、寺町の配置が今とほとんど変わっていないのが面白い。きっと200年前から絵になる風景だったのだろう。

他にも『大物社』(右下2枚)では大物主神社の広い境内や、今は緑地化してなくなった大物川を確認。『貴布禰社』(左下)には鳥居の前、今の国道43号線の上に建物が並んでいる。お寺や神社は旅路の大切な道しるべだったのだろう。大阪府と兵庫県をあわせた摂津国のガイドブックに掲載された図版は300点以上。そのうちの約4割を寺社が占めているのも興味深い。

尼崎では他に『本興寺』『武庫川』『神崎の渡口』『久々知妙見祠』『猪名寺』計9カ所が掲載されていた。全体に占める割合にはちょっとさみしいものがあるが…。

「当時の人は、大阪―西宮間が歩いて日帰りができる範囲でした。だから、尼崎城下には小さな旅籠が数軒ある程度だったようです」という室谷さん。そう、尼崎は旅人が“素通りする”街だったのだ。大坂の西を固めるために重要視された尼崎。でも、その近さゆえの街の課題は、江戸時代も今も同じだった…。