知ってるつもり?尼崎城
現在の中央図書館付近にて威容を誇っていたという尼崎城。その変遷と歴史的意義は、尼っ子ならば知っておくべし、である。
かつて「大物城」があった。
文明5年(1473)に中国地方を拠点とする大内氏配下の武将が「尼崎及び大物城を攻め落とした」とする記録があり、尼崎城に先行する「大物城」の存在が戦国時代において確認されている(詳細は不明)。
「尼崎城」は大永6年(1526)戦国武将・細川高国により築城される。この城の規模を拡大したものが、戸田氏鉄による尼崎城へ繋がると考えられていたが、近年の研究では現在の阪神大物駅のやや西南にある別の城だったことが指摘されている。
「西」を意識した近世
元和3年(1617)、尼崎藩主となった戸田氏鉄は幕府から築城を命じられる。最大の理由は、大都市・大坂へと通じる中国街道上の要所であったことだろう。将軍・徳川秀忠が築城の様子を視察に訪れていることからも、幕府にとって重要な意味を持つことは明らかだ。
城下の整備も行われ、最も西に武家屋敷を置き、その北側に寺院の集まる寺町を隣接させている。これもまた西方からの攻撃に備えたものとされている。
さらに城の空間構成も興味深い。尼崎藩の西端は現在の兵庫や須磨までと東西に長く、尼崎城下も同様であった。そこに新城と城下町を造り出すにあたりベースとなる軸線もまた、尼崎から大坂を結ぶ西から東へのラインに沿って敷かれた可能性があるという。西側の城下から天守のあった本丸の中央部分を経由して東へ直線を引くと、ちょうど大坂城のあった付近にあたる。
このように、尼崎城は西摂の要地である尼崎への敬意を代弁する存在であった。しかしそこには、大都市・大坂の防備とセットで構想された幕府の政治的意図が加味されていたことも忘れてはいけない。
参考文献『尼崎市史』2 巻/堀田浩之「尼崎の城郭プランに関する一考察」『地域史研究』平成11 年10 月号/ Web 版尼崎地域史事典『apedia』