幕末の英雄、お殿様、伝説の美女、大商人、悪党… 尼崎偉人列伝
誰もが知ってる有名人ではないが、尼崎の歴史では重要な役割を果たした偉人伝。どのお方もいい仕事をされています。
01 尼崎城を作った左門さま 戸田氏鉄(とだうじかね)1577-1655
元和3年(1617)に近江国膳所(現在の滋賀県大津市)3万石から尼崎5万石に入部した、尼崎藩の初代大名。壮大な御殿に四重の天守閣を備えた尼崎城を築く。築城技術が絶頂期に達したこの時期にあって、徳川幕府の命で10年にわたり大坂城の天守や石垣・堀などの普請を担った氏鉄。
その手腕が発揮された尼崎城は近世城郭に相応しく秀逸であったと推察され、想いを寄せる尼崎人のロマンは今も熱い。
神崎川の分流である「左門殿川」の名は、拡張改修と築堤を行った氏鉄の官職名である「左門」から。在藩期間は18年。その後1635年に美濃国大垣(現岐阜県大垣市)に移った。藩政の規律に488条40法度からなる「定帳」を定め、学問・修身・治国のための書を著すなど、統治手腕にも長けたことがうかがえる。
尼崎歴史ボランティアガイド推薦の声
「寺町を案内するのに、欠かせない人物です」永野昭一さん
02 「残念さん」と呼ばれた藩兵 山本文之助(やまもとぶんのすけ)?-1864
元治元年(1864)7月、倒幕を旗印とした長州藩士・山本文之助は、京都での戦い(蛤御門の変)に敗れ長州へと撤退する途中、尼崎城北の口御門(現在の大物駅近く)で藩兵に逮捕された。尼崎藩の取調べを受けるが、「便所へ行きたい」と言いその場で「残念、残念」と叫び割腹自殺した。
幕末期には、非業の死を遂げたものへの同情が反幕思想とつながって民間の流行信仰となり、彼らの墓へ群参する動きが広がっていた。長州と取引のあった油屋喜平の世話で葬られた文之助もまた、「残念さん」としてまつられ、領主の禁制にもかかわらず民衆が多くお参りした。
現在、大物公園の東にある彼の墓は願かけ神様や入学試験の神様として有名に。悩み事が軽くなるように、そして残念なことにならないようにと、多くの人々が参詣する。
尼崎歴史ボランティアガイド推薦の声
「今でも参拝してくれて残念さんもあの世で喜んではりますね」村本冨代さん
03 尼崎生まれの美女 名月姫(めいげつひめ) 平安時代
彼女にまつわる伝説は各地で異なる。ここでは能勢などに伝わる最も有名なバージョンを紹介する。
御園荘浜村(旧三反田浜村)の地頭・三松国春が、子を授かるよう祈り、中秋の名月の夜に生まれた名月娘。絶世の美女に育ち能勢へと嫁ぐが、噂を聞きつけた平清盛が奪いに来る。夫と引き裂かれ、悲嘆にくれた名月姫は自害する。
姫の故郷・尼崎には、父の身代わりに命を差し出す美談が伝わる。尾浜八幡神社には、彼女の墓が残り、訪れる人は今も後を絶たない。