戸ノ内というシマ

JR東西線加島駅を北に出て住宅街を横切り、シャフト工場の間の路地を進み、化学機械工場の横をかすめ、モスリン橋を渡ると、戸ノ内と呼ばれる、神崎川・猪名川・旧猪名川に囲まれた三角州に入ります。地図で見ると靴下のような形をした半島なのですが、近現代の歴史を知ると、外界とは一線を画したシマだったと分かります。

僕が戸ノ内に通い始めたのは、9年前のことです。「尼崎 沖縄料理」とグーグルで検索した時に、戸ノ内の真ん中にある「より道」にフラッグが立ったので、足を運んでみたのがきっかけでした。ガラガラと扉を開けてお店に入ると、店内にいたほとんどの方が沖縄出身者や2世の方でした。そこで沖縄の料理やお酒をいただき、カラオケで沖縄民謡を唄い、楽しく輪の中に入れてもらえたことで、その後僕は、このお店に月1回のペースで通い、ママや常連さんから、戸ノ内がたどった数奇な運命について色々と教わってきました。

戸ノ内の歴史は複雑です。第一次大戦後に、沖縄では戦後不況と黒糖価格の暴落によりソテツ地獄と呼ばれる飢饉が起こり、多くの人々が仕事を求めて大阪や神戸、阪神間に移り住みました。そうした移住者の中で、西成区で養鶏をしていた人たち、西淀川区で素灰(そばい:練炭の材料)や消し炭を作っていた人たちが、昭和5、6年頃にこの三角州の先端に移り住んだのがきっかけだと言われています。やがて、これらの産業を中心に集落が形成され、会社・工場勤めや商業など、職業面でも多様化が見られるようになりました。戦後には焦土と化しアメリカの占領を受けた沖縄から多くの人たちが渡ってきました。

戸ノ内には大正12年(1923)にモスリン(羊毛を平織りにした織物)をつくる工場が建ちましたが、昭和不況の影響で倒産。跡地には航空機用エンジンの工場が作られましたが、昭和20年(1945)の空襲で焼失しました。昭和29年(1954)には、工場跡地に尼崎駅前にあった遊郭が移転してきました。界隈は神崎新地と呼ばれ、一時期は70軒ほどの妓楼が建ち並び、400人近くの女性が働いたそうです。遊郭が移転してきたことで、町には人が増え、特殊飲食店街として栄えましたが、暴力団の抗争事件なども起こり環境は悪化し、また外の世界からは差別の目で見られるようになりました。

売春防止法以降、神崎新地では再三取り締まりが行われたことで規模を縮小し、最終的には阪神・淡路大震災で建物が被害を受けたことで遊郭は一掃されました。その後戸ノ内には中小・零細工場や事務所が集まり、いくらか環境は改善されましたが、近年は住民の高齢化が進んでいます。

戸ノ内では毎年旧盆に「道じゅねー」と呼ばれる祭りが行われます。琉鼓会の若者たちが、 祖先霊があの世に戻れることを祈願しながらエイサーを踊り、太鼓を叩き、まちを練り歩くというものです。ふだんはひっそりとした戸ノ内に、この日ばかりはこんなにいたのかと思うほどに人があふれています。

「より道」では長年、頼母子(たのもし)が行われていました。頼母子とは、参加者が毎月お金を出し合い、各々がまとまったお金が必要な時に総額を受け取るという相互扶助のシステムです。模合(もあい)とか、訛ってムエイとも言われます。銀行でお金を借りられる状況になかった人たちにとっては、自分たちの生活を支えるために必要な仕組みでした。コロナ禍以降は開かれなくなっていましたが、最近新たなメンバーを募り再スタートしました。集まった人の中には僕のようなナイチャーも数人いて、運命共同体ながら月1回集うのを楽しみにする仲間、という感じになっています。

このシマには、今聞いておかないと聞けなくなってしまう話がたくさんあります。そんな物語に出会うために、僕は「より道」に足を運び続けるのです。■山納 洋


やまのうひろし
1993年大阪ガス入社。神戸アートビレッジセンター、扇町ミュージアムスクエア、メビック扇町、大阪21世紀協会での企画・プロデュース業務を歴任。現在は大阪ガスネットワークにおいて地域活性化、社会貢献事業に関わる。一方でカフェ空間のシェア活動「common cafe」「六甲山カフェ」、トークサロン企画「Talkin’ About」、まち観察企画「Walkin’ About」などをプロデュースしている。