東だけの園田町、失われた村章、塚口にある園田学園、迫り来る伊丹と豊中…島人も知らない七不思議

暮らしていても意外と知らない園田にまつわるミステリー。知っていても特に役立つことはなさそうだ、7つの不思議にせまってみた。

一/そのだの由来はなんなのだ?

園田の地名は、明治22年の町村制で、18カ村が合併した際に名付けられた「園田村」が初出となっている。その名は橘御園(たちばなみその)に由来しているとされ、園の文字をベースに命名。かつての荘園の名前から一文字取ってアレンジする手法は当時流行した。

昭和17年には、尼崎市が武庫・大庄・立花との合併にあわせた合併申し入れを拒否。

終戦後の昭和21年に再び尼崎市は合併を申し入れることに。当時税務署、警察、郵便は伊丹の管轄にあったため、三菱電機という大口納税者を失いたくない伊丹市からも合併のラブコールを送られる。猪名川の洪水で甚大な被害を受けた園田村であったが、尼崎派と伊丹派に分裂して混乱を極めた。当時の衣笠村長は辞任し、暴力事件や役場のボイコット、県庁への座り込みなどの末、昭和22年に尼崎市との合併を告示した。

二/東園田町とはなんの東なのか?

阪急園田駅、園田地域、園田村と「そのだ」の名はいたるところで見かけるが、園田の二文字が町名に含まれるのはなんと「東園田町」のみ。北でも南でも西でもなく、なぜ東だけが町名になっているのか。果たして一体どこの東を指しているのだろうか。「困った時のあまがさきアーカイブズ」と、歴史博物館3階の一室を訪ねた。

通称「島ノ内」は、昭和11年に阪急園田駅が開設されて以降、阪急による宅地開発により市街地化していった。「小字(旧村)を横断して住宅地が形成されたため、法界寺字園和10丁目、中食満字園和4丁目というように町名がわかりにくく不便だったようです」と史料担当の西村豪さんは言う。

こうした問題を解消するために新しい町名について地元と市で検討が重ねられた。その顛末を「園田文化会報」の過去記事を見ながら西村さんが解説してくれた。「阪急園田駅を中心に広がる地域なので園田を冠した町名をつけようとしたが、『島ノ内だけでその名を独占するわけにはいかない。同じ園田村である藻川の西や南の地域の人たちに申し訳ない』ということから東園田町が採用されたようです」。

かくして町名が昭和36年に決定した。つまり、東園田町は藻川を挟んで東側の園田地区という意味だったのだ。なんとも島民たちの慎ましさを現代の私たちに伝える町名誕生秘話だったのだ。

三/伊丹と豊中 越境する島

園田競馬場の東にある利倉西は豊中市。昭和40年代の猪名川改修工事で、川の流れをショートカットした際に、猪名川の東にあった一角が西側になった。かくして豊中市の一部が島ノ内に含まれたのだった。

さらに取材班は島の最北端を目指し、サイクリングロードを北へ向かった。道路の先に階段があり、茂みをかきわけながら水辺へとすすむ。すると島人の母なる川、猪名川と藻川が交わり、まるでタイタニック号の先端のような自然の景色が現れたのだった。え、これが尼崎の景色? と思いきや残念ながらこの地点は伊丹市。こちらの飛び地の理由は不明だが、3市を抱き込む島の懐の深さを、北の空に飛行機を眺めながら噛み締めた。

四/園田村章の行方。

1947年(昭和22年)に尼崎市に編入された園田村。合併以前の尼崎市、小田村、大庄村、武庫村、立花村のそれぞれの市章・村章は、ほぼその形式が知られている。しかし、園田村の村章だけ、まったくその形が知られていない。

2016年の市制100周年の時には、新聞記事になるなど、村章の捜索が行われたものの、その詳細はおろか、概略さえも不明なままである…。

未だナゾに包まれたままの園田村の村章。そもそも、はたして、それは存在していたのか?

ちなみに立花村の村章は、これまでは写真に写り込んだ小さな紋章しかなく、不鮮明な形しかわからなかったが、同年の捜索活動で、旧立花村長からの感謝状が発見され明らかになっている。園田村章の行方にかかわる情報求む。

五/水路沿いの数え橋

阪急園田駅から、まっすぐ西に400mほどの位置に水路がある。南北にまっすぐ引かれたその水路には、北から順に一ノ橋、二ノ橋…と名付けられた橋が架けられ、「数え橋」や「数字の橋」などと呼ばれている。

南端にある最後の橋には「十二ノ橋」と親柱に記されている。この辺りは昭和11年の園田駅開設にあわせて開発が行われ、水路整備とともに架けられた橋であるらしい。整然と区画整理された街並みはどの辻も同じような風景のため、道案内の目印のために任意に名付けられたと思われる。

阪急武庫之荘駅の北西にも、一から十七までの「数え橋」があるが、こちらは園田とは逆打ちで駅の近くから一、二と数える。昭和10年代の駅設置にともなう開発によって設置されたという共通点があるらしい。

六/塚口にあるのになんで「園田」学園?

阪急塚口駅が最寄りの駅なのに、「園田」の名前がついた大学に違和感を覚える人は少なくないだろう。そのわけは創設の地が園田村だったことに由来する。

昭和13年、園田村長であった中村龍太郎が自らの所有地だった園田村大字森(現・南塚口町1丁目)を提供して、園田高等女学校を創設したのがはじまり。この場所には現在も園田学園中学校・高等学校の校舎があり、大学と短期大学は「園田」の地名を冠したまま、五合橋線の西(南塚口町7丁目)に開学した。こちらはかつて立花村だった地域。旧町村の6つの区域は今も行政区域として残っているが、その境界は複雑で、時にこうした混乱を招いている。

ちなみに「塚口」は、塚(古墳)が多く発見されていることに由来ではないかと言われており、塚口町や塚口本町、南塚口町などの町名が広がっている。

七/たのう?たの?どっちか問題に終止符

島の北側と対岸に広がる「田能」。この地名の読みが謎に包まれている。「たのぅ」とごまかしながら発音している人も少なくないだろう。遺跡名や資料館名には「たの」とルビがふってあるが、町名は「たのう」と表記が揺れている。

1985年発行の『尼崎の地名』によると「たの」とあるが、1987年の住居表示制度による読みは「たのう」となっている。

古くから田能に暮らす元市役所職員によると「住居表示の導入時に地元で議論があった記憶はないですが、昔からの人は「たの」と呼んでました。新しい住民が漢字にあわせて「たのう」と自然に呼びはじめたのが通例になったのでしょう」という。

遺跡名や資料館名につけた「たの」のルビは、そんないにしえの記憶を残すための教育委員会の矜持だったのかもしれない。


協力・あまがさきアーカイブズ