史の話超ざっくりで一網打尽!尼崎の漁業の歴史

尼崎の漁業の歴史を網羅した貴重な資料を発見。その名もずばりな「尼崎の漁業」の内容をダイジェストでご紹介しよう。

西長洲から出土した小型タコツボ

原始時代
 社会見学でおなじみ、弥生時代の集落跡である田能遺跡では、土製のおもりや小型のタコツボが出土しているほか、なんとクジラやエイなどの骨も見つかっている。だからといって尼崎の海でクジラを獲っていたわけではないだろうが、市内の各遺跡から漁に関係する出土品が見られることから、私たちの遠い祖先は、漁業(漁撈)と深い付き合いがあったのだ。

トリガイ漁の風景『日本山海名産図会』より

古代~中世
 出土品によれば、アマ漁民の活動は網などを駆使した本格的なものであったらしい。その実態は必ずしも明らかではないが、長洲浜(現在の金楽寺付近)には漁民集団と呼べる規模の人々が活動していたことがわかっている。彼らは神社に鮮魚を貢ぐ役目を担い、そのために朝廷から税などについての特権も得ていた。11世紀には瀬戸内海沿岸まで漁に出かけていたことを示す史料もあり、その活動はかなり広い海域に及んでいたようだ。

また、「市庭」と書かれた14世紀前半の絵図があることから、この頃には尼崎の沿岸部、大物~杭瀬一帯には定期市が立っていた。このことは、漁民の活動が盛んであったことを示すと共に、それを必要とする人口と消費できるだけの経済活動が存在したということでもある。

大正時代の丸島における地曳網風景『武庫郡誌』より

近世
 近世に入るとアマ漁民の活動範囲はさらに広がり、瀬戸内海西部でタイ網漁をする者があったことが確認されているほか、関東地方でイワシ漁に参加した者がいる可能性も指摘されている。だが、こうした遠方での操業は18世紀あたりから衰退していったようだ。各地方の地元の漁民に取って代わられることになったと考えられている。

ちなみに、『日本山海名産図絵』という書物に記されたアマの海の幸として、トリガイがある。今やなかなかの高級食材がアマの海の名物だったとは、意外ではないだろうか。

大正時代中頃の中在家の港。手前は打瀬船の船首(市立図書館蔵)

近代以後
 明治時代に入ると、瀬戸内海諸国から入荷する漁獲物の量は一気に減少するが、尼崎の海での漁業は依然として盛んだった。本格的な漁業を行っていたのは尼崎町の中在家や築地、武庫川左岸の丸島だった。尼崎町では、カレイやヒラメ、ハマグリ、エビなどが多かった。これには、古代から一貫して尼崎の漁法は底曳網や地曳網が中心であったことも関係している。

尼崎の漁業が衰退傾向を示すのは明治時代末期から。これには尼崎の都市化やそれに伴う海洋汚染、台風による被害などさまざまな要因がある。昭和30年代にはほとんど漁業従事者は姿を消し、昭和48年(1973)の漁業権の買い上げにより、尼崎の漁業の歴史は幕を閉じた。

工都としての繁栄の歴史がもてはやされる尼崎ではあるが、こと漁業については、それとは逆の展開を見せたことは、市民として頭に入れておかなければなるまい。

壺の話豊漁の守り神?鹿が描かれた謎のタコツボ

写真提供:尼崎市立文化財収蔵庫

市文化財収蔵庫の展示室では市内で発掘された出土品を見ることができる。その中に、2003年の東園田の発掘調査で見つかった土器のタコツボがある。

これが作られたのは、今から約2千年前の弥生時代中期末。弥生時代にはこの東園田一帯は海岸沿いだったそうだ。

発掘調査では実に約520個もの大量のタコツボが見つかったが、その中にひとつだけシカの絵が描かれたものがあった。絵が描かれたタコツボの発見は全国初であり、全国の考古学ファンの間でニュースとなった。

ツボの大きさは高さ8.7センチで湯飲みのような形。側面に脚を突っ張り、伸びをするような姿のシカの絵が描かれている。頭と足は線、首から胴と尾にかけては輪郭線で描き、胴にはシカの夏毛の特徴である斑点も描かれた可愛らしい図柄だ。

でも、なぜタコツボにシカの絵が描かれたのだろう。市教委の学芸員の益田日吉さんは「シカは古代から神聖な動物と考えられていた。豊漁を願って描かれたのでは?」と教えてくれた。


参考文献・掲載写真/「尼崎の漁業」(尼崎市文化財調査報告書第19集・尼崎市教育委員会・1988年)