投票率86% あの市長選はスゴかった!
86.02%。信じられないような投票率を記録した市長選があった。
1951(昭和27)年に行われた六島誠之助と阪本勝による一騎打ち。昨年11月の選挙が史上最低のわずか29.35%だったことを考えれば、驚異的な数字だ。一体、尼崎に何が起きていたのか―。
市長選の坂本勝(左)と六島誠之助両候補者 『尼崎の戦後史』より
1950年、戦後復興期にあって少しずつ活気を取り戻しつつあった尼崎を、大きな天災が襲う。ジェーン台風である。工場用水の汲み上げ過ぎにより地盤が低下していた尼崎の街は、高潮など甚大な被害を受けた。これを重く見た時の市長・六島誠之助は、閘門開閉式の防潮堤建設に乗り出す。復興へ向けて、住民たちの市政への関心が高まりつつある時期だった。
そんな雰囲気の中で迎え1951年の市長選挙。当初は現職である六島誠之助の圧勝ムードだったが、代議士出身の社会党員・阪本勝の出馬で一気に旗色が変わる。阪本は1927年に県会議員に当選すると、国政に打って出て衆議院議員として活躍。落選したことがない“不敗神話”を持つ対立候補の登場で、注目度は否応なく増した。
当時をよく知る「尼崎公害患者・家族の会」会長の松光子さんはこう語る。
「みんな台風で打撃を受けた街をよくしたいという思いが強かった。その前は終戦後すぐで、ドタバタして選挙どころじゃなかったしね。投票に行けることがありがたかった。演説会に行くとどこも満員でね。尼崎は労働者の街だったから、社会党から出た阪本さんはやっぱり人気がありました」
実際、阪本が分かりやすい言葉で語った尼崎の未来像は、多くの市民にとって魅力的なものだった。防潮堤工事の完遂や工業用水の確保といった現実的な政策を並べる六島に対し、阪本はかつて訪れたシカゴ、ウィーン、シュツットガルトなど諸外国の都市の特色を取り入れると言って夢を与えた。
「時あたかも特需による戦後はじめての好況期であり、六島の着実さより、未来性を思わせる阪本の発言のほうが市民をひきつけていった」(『尼崎の戦後史』p215)
こうした記述からもうかがえるように、現職/新人、保守/革新、現実/理想と、対立軸が明快であったことも高い投票率に結びついたと思われる。
現職の強みを活かして地盤を固めていく六島と、夢のある言葉で切り崩しを図る阪本。六島に六分の利、いや阪本が追い上げ五分五分…開票結果は果たして、阪本7万票に対して六島5万6千票。下馬評を覆し、阪本が勝った。
当選後、阪本は争点の一つだった防潮堤建設を進め、2年後に完成をみる。任期満了後は県知事を務め、さらに東京都知事選にも出馬したが、落選。これが阪本の生涯唯一の選挙での敗北であった。対した六島は捲土重来を志すも、3年後に急逝。59歳の若さだった。尼崎市長選挙史に残る一戦は、その後も含め後々まで語り継がれる世紀の戦いだったのである。
参考文献 『尼崎の戦後史』『図説尼崎の歴史』