尼の市長列伝わがまちの市長はすごかった…

野草平十郎

初代公選市長の六島誠之助は地盤沈下に悩む尼崎で大防潮堤の建設に着手した。1期4年の後、1951年、元衆議院議員の阪本勝と市長選を争い尼崎史上最高の投票率86%の投票率で阪本が当選した。阪本は市民が市長に会いやすいようにと扉を開放した。尼崎市役所2階の秘書室のドアは今も常に開け放たれている。阪本は54年11月に市長を辞任、兵庫県知事選で圧勝した。助役であった薄井一哉が市長となる。こののち篠田隆義、野草平十郎と元助役が市長となった。各3期36年にわたって市職員経験者が行政を統括することとなる。

六島誠之助

誠実、堅実であり行政運営にたけた彼らによって80年代に都市基盤整備はあらかた終わった。行政には国際化、文化化、高度情報化が課題となったが、抽象的な要望を創造的に具現化する力の弱い地方行政の対応は遅れざるをえなかった。野草平十郎は86年、「尼崎は変わる」をテーマに市政70周年記念事業を華々しく繰り広げた。「近松のまち」として市の文化向上を図り、イメージを変えようと努めた。

90年はまさにバブル経済崩壊の前年、野草は施政方針演説で「経済は…景気上昇の中にあります。…精神的・文化的な面を重視した施策の展開も求められている…」としている。世にファジーやゆらぎという言葉が流行した。そんな中、初代公選市長の子息でその名を継いだ六島誠之助が当選を果たす。

「まるで氷室のようだった」。六島は尼崎市役所に初登庁したときの心象をこうもらした。強い孤立感。知る者は一人もいない。それまで36年にわたって市職員をへた気心の知れた市長の時代が続いており、市職員のとまどいは当然であったろう。オール野党状況で市議会は混迷した。

宮田良雄

92年末、尼崎市議会議員による不正出張事件いわゆる「カラ出張」事件が出来する。八戸へ出張していたという議員が記者の質問に対して「駅で『はちど、はちど』とアナウンスがあった」と答えるのをテレビニュースで見た白井文が市議会選出馬を決心したという。

白井文

91年バブル経済は崩壊した。高度経済成長は終焉し、少子化、人口減少、高齢化が重くのしかかった。六島は国、県にも働きかけ、公害の象徴であった庄下川の浄化を果たした。さらに尼崎臨海部の大規模開発を企図するなど、大きな変革を求めたが、94年、市民は再び市職員経験者である宮田良雄を選んだ。「日本の夜明けは尼崎から」と夢を描いた六島に対して慎重な宮田は「我慢して、しないことが大事なときがある」と語ることがあった。日本経済は低迷し、尼崎市の財政は危機的状況だった。

「行政だけではどうにもならない」。市民の自立と協力が求められ、市民の行政参加が盛んになった。行政は市民主体という安逸に逃げ込み、弥縫的行財政改革を繰り返さざるをえなかった。さらに関西経済を衰退させる事件が起こる。阪神・淡路大震災である。震災は既存の行政組織の対応能力の限界を露呈し、あらためて市民の力を見せつけ、NPOが生まれ る契機となった。

宮田は2期を務め市民派の白井文が市長に当選した。

稲村和美

改革を目指しても大きな変革は求めたくない行政のプロを相手の会議は白井にとって不毛で殺伐としたものであったに違いない。「そんな会議が続いても、市民団体の会議に出かけると、とたんに生き生きして肌までが輝いて見えました」と近しい者は語る。それが2期目の市長選での10万票を超える最高の得票数につながったのかもしれない。

最年少女性市長と喧伝された白井は2 期ののち、2010年、より若い稲村に後を託した。

そのとき時代は… 歴代市長 はやわかり年表

戦後の公選制度以降の歴代市長をその時代背景とともにご紹介。

六島誠之助(1947~1951)
1950 尼崎市警察問題(警察局長の罷免・交替)
ジェーン台風襲来
阪本勝(1951~1954)
1954 防潮堤の閘門開通式(4.20)
尼崎製鋼所争議
薄井一哉(1954~1966)
1956 尼崎市、財政再建団体となる(~1960)
1962 市役所新庁舎完成(現庁舎)
1963 第2阪神国道(国道43号)開通
日本初の高速道路(名神)が開通(尾浜-栗東(滋賀県))
篠田隆義(1966~1978)
1969 第1次公害防止協定を締結(市・県、市内工場間)
1970 人口が55万人を突破
1978 阪急塚口駅南に「さんさんタウン」開業
野草平十郎(1978~1990)
1981 阪神高速道路大阪西宮線、開通
1982 アルカイックホール完成
1986 市制70周年、近松ナウ事業開始
1990 人口が50万人を下回る
六島誠之助(1990~1994)
1992 市議会議員の不正出張発覚
→翌年、議会自主解散
1994 庄下川水まつり開催
宮田良雄(1994~2002)
1995 国道43号線道路公害訴訟、住民側勝訴
1996 市制80周年を迎えた
1997 JR東西線が開通(尼崎・京橋間)
2000 尼崎大気汚染訴訟、原告と国の和解成立
白井文(2002~2010)
2005 JR福知山線脱線事故発生
クボタ旧神崎工場のアスベスト健康被害が発覚、全国的な社会問題に
2006 市制90周年を迎えた
稲村和美(2010~)