鉄鋼戦士が燃えた時代

敗戦直後、モノもカネもない時代。生活の改善を求めて男たちは立ち上がった。「労働者の街」尼崎が最も熱く燃えた10年を振り返る。

尼鋼争議でのデモの隊列(有田吉平氏撮影・図説尼崎の歴史より転載)

意外と知らない労働運動史

GHQ(連合軍総司令部)は日本の民主化のため、労働組合の結成を奨励した。大企業が集まっていた尼崎でも続々と労組が誕生、昭和21年には戦後初のメーデーが開かれる。八時間制ノ実施▽定休日ヲ有給トセヨ▽戦災者ヲ救済セヨ…。激しい雨の中、1万人超が参加した大会の熱気は、アマの戦後労働史の原点となった。

まもなく全国で激化した賃上げ要求を尼崎で先導したのは、市内に3カ所あった火力発電所の組合だ。「時には1週間ごとに停電ストを打った」(当時の関係者)ほど激しい闘争により、画期的な賃金体系が確立される。

だが、朝鮮半島情勢の緊迫でGHQはレッドパージ(共産党員らの職場追放)に転じる。尼崎では、鉄鋼、電産、電鉄、教員など、昭和25年までの1年間に約200人が追放されたという。

パージの嵐と朝鮮戦争後の不況の波をまともに受けたのが鉄鋼業だ。大同鋼板、大谷重工などで大量解雇や賃下げに反発した労働者たちが大規模な争議に突入。なかでも、市民の強い関心を集めたのが昭和29年の尼崎製鋼所争議だった。労組の敗北に終わったものの、この時期の日本の労働争議の典型として、いまなお伝説的に語り継がれている。

こうした局面を経て、労働運動は分裂・弱体化し、日本は高度成長へ突入していったのである。

労働運動最新事情

派遣・契約など非正社員の増加、偽装請負、ワーキングプアや「名ばかり管理職」など、新たな労働問題が次々と起こる昨今。尼崎では、従来の労組ではフォローしきれなかった派遣やパート、外国人労働者も支援する個人加盟の組合「武庫川ユニオン」が活発な活動を展開している。