尼崎が生んだ喜劇王、岡 八郎

「クッサ~」「エゲツな~」で関西人を笑かしまくった吉本新喜劇の看板役者、岡八郎さんは西長洲生まれ、出屋敷育ちのコテコテの尼っ子。昨年67歳で亡くなった「奥目の八ちゃん」の思い出を長女の市岡裕子さんに語ってもらった。

父娘の母校、明倫中学校前で。左が裕子さん。

父は根っからの喜劇役者でした。それも、お客さんの反応を直接感じられる舞台が何より好きでした。幼いころ出屋敷界隈の演舞場で見たチャンバラなどの大衆演劇がその原点。尼崎の人間であることを誇りに思っていて、離れようとしませんでした。母との結婚式も貴布禰神社だったそうです。

大部屋俳優をした後、21歳で吉本に入り、浅草四郎さんと「四郎八郎」で漫才をしましたが、どうしても新喜劇がしたいと、コンビを解消。27歳で新喜劇に入り、30歳で座長になりました。宮内町の家から毎日阪神電車で梅田と難波、京都の劇場に通い、10日ずつ公演して、合間にはテレビなどの仕事。私が子供の頃はテレビでしか会えないぐらい忙しかったですね。

根はシャイで、口数も少なく、子供にすれば怖い父でした。仕事は家に持ち込まない人でしたが、台本が面白くなかったりすると、「こんなもんやれるか」と荒れることもありました。母も芝居の経験があったので、「どうしたいの」となだめながら、父が寝た後にお弟子さんと2人で台本に手を入れたりして。

お酒の問題やリストラ、癌など50歳以降は大変なこと続きでしたが、昨年7月の葬儀には950人もの人が来てくれて。出棺では「八ちゃん、ありがとう!」って拍手が沸き起こったんです。辻本茂雄さんが「新喜劇は僕らがこれから守っていきます」とおっしゃってくれたのが、本当にうれしかったですね。(談)