城下町尼崎の民なら知っておきたい城のこと

「え?尼崎に城があったなんて知らなかった」というキャッスルビギナーにもやさしく解説する基礎講座。

なぜ尼崎にお城が作られたの?江戸幕府にとって重要な地点だったからです。

「尼崎城下風景図」 作者不詳 近世後期 尼崎市教育委員会蔵(72.0×243.0cm)

元和3年(1617)、江戸幕府により譜代大名であり尼崎藩の初代藩主となる戸田氏鉄に尼崎城の築城が命じられます。大坂夏の陣で豊臣家が滅ぼされてから、わずか2年後のこと。おそらくそれ以前からプランは練られていたのでしょう。

幕府にとっては尼崎城築城を急がなければならない理由がありました。豊臣家を滅ぼし大坂を直轄地にしたとはいえ、周辺は外様大名に囲まれ、西国には島津や大内といった大大名が控えている。大坂に近く、古くから交通の要衝である尼崎を、幕府にとっての身内で固めようと考えるのは当然のことです。

学校の日本史で「一国一城令」って習ったでしょう? 基本的に江戸時代には城を造ってはいけません。無断で石垣の修理をしただけで、「謀反の意志あり」とされてしまう時代です。そのような時代背景を考えれば、いかに幕府が尼崎を重要な場所と考えていたかがわかります。

四層の天守閣ってすごいの?五万石の大名には立派すぎます。

尼崎城は元和4年から築城が始まり、数年後に完成しました。その姿は江戸時代を通してほとんど変わっていません。当初から四層の天守閣を持ち、三の丸まである大規模なものでした。尼崎藩主の石高は五万石ですが、こんなに大きな城を持つ五万石の大名は珍しいですね。

天守閣は四層ですが、その意味はよくわかりません。実はあまり機能的な意味はないんです。大坂城が五層ですから、それよりは低くしたのでしょうか。天守閣は櫓が高くなったものと考えられていますが、本丸の四隅にある他の櫓が三層なので、それよりは高くしたのかもしれません。わざわざ鬼門である本丸の東北の位置に天守閣を持ってきたのも変わっていますね。

にもかかわらず四層もの天守のある城を築いたのは、権力の象徴としての意味合いではないでしょうか。尼崎は真っ平らなところですから、てっぺんまでいくと24~25m、8~9階建てのマンションの高さの天守閣は、尼崎のどこからでも見えました。天気がいい日には宝塚からも見えたそうですよ。

「大坂の手前にも譜代大名のこんなに大きな城がある」と見せることで、外様大名にとっての脅威になったことでしょう。海際に建っていたので、瀬戸内海を渡る船からは必ず目に入ったはず。そうした視線も計算されていると思います。

お城の中はどうなっていたの?こんな感じです。

尼崎城下家中屋敷町屋其ほか色分け絵図(部分)

中心となる本丸は約100m四方。内堀を挟んで二の丸と松の丸、さらに堀を隔てて東西の三の丸があり、外堀も設けられていました。西の外堀は庄下川です。敷地面積は甲子園球場の3.4倍、堀まで入れると4倍以上の大きさにもなります。

本丸御殿の5分の1が藩主の居宅として使われ、参勤交代や藩の大事な行事で多くの人が訪れた時に使う大広間もありました。その他、専用の湯殿と茶室を備えた貴賓室のような空間があり、部屋の四方に金の襖や障子があったことから「金の間」とも呼ばれたそうです。

東西両側に城下町が広がっていましたから、尼崎城下は現在の阪神出屋敷駅東側から大物駅西側にかけての広大なものでした。

控えおろう!アマ殿様小列伝じゃ

戸田氏鉄(とだうじかね)
記念すべき初代城主。幕府の命を受け、尼崎城と城下町を整備した。また、神崎川分流の拡張改修築堤を行ない、領民を水害から救ったことで、「左門殿川」の名の由来となった愛されキャラのお殿様。
松平忠興(まつだいらただおき)
ラストエンペラーならぬ尼崎藩最後の藩主。父親が長く藩主を務め、引退後も存在感を放ったことから、現役時代は影が薄め。むしろ維新後に活躍。東京へ向かい、赤十字の設立に関わるなどした。

青山幸成・幸利(あおやまよしなり・よしとし)

元禄バブルへ向かう頃の尼崎藩イケイケ時代の藩主。幕府中枢とのパイプが太く、大地震や津波被害からの復興に乗じて、お城の改築や城下町を再整備するなど、辣腕ぶりを親子二代にわたって発揮した。


答えてくれたのは
尼崎市立文化財収蔵庫学芸員で尼崎城のプロ
室谷公一さん

実は天守閣が建っていたのは、現在、私が勤める文化財収蔵庫のある場所なんです。城下の巨大模型や発掘調査で出てきた埋蔵品なども多数展示してご来館お待ちしています。