尼崎コレクションvol.23《尼崎城本丸平面図》

尼崎市内に現存している逸品を専門家が徹底解説。あまりお目にかかれない貴重なお宝が歴史を物語る。

本丸御殿はなぜ再建できたのか?

249×252cm
江戸時代終わりに尼崎城本丸を再建したときの平面図。本丸内の御殿には、室名や畳数、建具、室内装飾までが書き込まれた、詳細で正確な図面です。

弘化3(1846)年1月28日午前8時頃、尼崎城本丸の女中部屋から出火した火の手はまたたく間に広がり、本丸御殿を全焼させて午後3時にようやく鎮火しました。幸いけが人等の報告はなかったのですが、人々は全焼した本丸御殿をどうするか、という現実問題に直面します。

本丸御殿は藩主の住居、尼崎藩の政庁、重要儀式の場、迎賓館としての役割を兼ね備え、そして戦時には指揮所となる、まさに尼崎城や尼崎藩の心臓部として、なくてはならない施設なのです。しかし、残念なことに、その頃の尼崎藩の財政は、藩主自らその破綻を宣言するほど逼迫した状態でしたので、とても再建に取りかかれる状況ではありませんでした。焼け落ちたがれきを前に皆呆然としたことでしょう。

ところが、火災当日に見舞いに訪れた領内の村々から冥加金が献上され、その後も次々と村々から冥加(みょうが)金が献上されました。冥加金はもともと特権を得た謝礼として納める税ですが、尼崎藩の窮状を知っている領民たちが日頃の感謝という意味を込めて再建費用の献金を始めたわけです。やがて領内で材木の寄附や人足の手配なども行われ、村と町とで再建費用負担の割り振りも決められました。そして、同年7月には工事開始、ちょうど一年後の1月28日に上棟式、そして6月28日には完成して本丸への引っ越しが行われました。再建までは一年半かかりましたが、当時の尼崎藩の状況から考えると、信じられないほどの早さで再建できたといえるでしょう。

尼崎市教育委員会が所蔵する「尼崎城本丸平面図」は、このとき再建したときの平面図と見られています。約80分の1の大きさで、柱・建具・装飾まで正確にあらわしていることから、現在文化財収蔵庫で展示している100分の1の本丸復元模型を作ることができました。

尼崎の人々が苦労して再建した本丸御殿でしたが、27年後の明治6(1873)年に尼崎城廃城とともに解体されました。本丸御殿の火災は当時の人々にとっては災難でしたが、城が失われた今となっては、正確な城の姿を甦らせることのできる貴重な資料が残されるきっかけとなった出来事でした。再建当時、尼崎の町や村の暮らしぶりも決して楽ではなかったのですが、再建に向けて武士も町人も農民もともに尽力しました。尼崎城はお殿様や武士のためのお城ではなく、みんなのお城だったのです。

本丸復元模型 見に来てね!
文化財収蔵庫

9:00~17:30 土日祝も開館(月曜休館)●南城内10-2 TEL:06-6489-9801


室谷公一●尼崎市教育委員会学芸員
「新しいお城が建つと文化財収蔵庫にも人がたくさん来てもらえますかねぇ。忘れられないように頑張ります」