論:あま育ちのあま知らず 兵庫県立尼崎青少年創造劇場 ピッコロシアター劇団部 田房加代

「尼崎」と「奄美」の物語を演劇作品として発表したピッコロ劇団。地元の人との出会い、新作への想い…制作を手がけ尼崎を走り回った田房加代さんに語ってもらいました。

兵庫県立ピッコロ劇団第37回公演「あまに唄えば」2010年6月4日~9日 作=岡田力(兵庫県立ピッコロ劇団) 構成・演出=岩松了

約1年半前…岩松劇団代表が「地元・尼崎を題材にした芝居を劇団員で創るべきだ。」と発言した時、正直、何とも表現しがたいのだけれど…靄がかかったような心持ちがした。

劇団員に尼崎出身者はいない。“あま”といえば“おおよそ阪神尼崎あたり”を指して呼ぶのだろうというくらいの知識はあったかもしれないが、たとえば尼崎の“南北問題”など、おそらく肌感覚では解らない劇団員が、宿題を投げかけられてから踏み込む“あま”である。“普段から”オモロイ!と話題になっていて湧き起こったテーマではなく、面白さを“探し出して”組み立てる作業である。そのために「はじめまして」とあらたまって出会いを作っていかなくてはならない。「演劇の題材探しのために話を聞かせてください。」という切羽詰まって踏み込む関係は、果たして幸せな出会いだろうか。人見知りの私は老婆心をくすぶらせながら、その頃、別の公演の制作についていた。

尼崎で出会った奄美のひとびと

「いや、出身者ではないからこその発見があるかもしれない。」その期待の先に劇団員が見つけたテーマは【尼崎には奄美大島出身の人が多い】ということだった。

30年以上尼崎に住んでいて全く知らない情報だった。

公演の制作担当に決まった私は、アンテナを急いで伸ばし、必要かと思われる方々に会いまくった。市バスに、阪急バスに、阪神電車に乗りまくった。久々の市内南北移動の日々。人見知りしている場合ではなかった。

しかし私の老婆心は取り越し苦労だった。出会ったあまの人々はこちらの都合を包み込むような優しさで、出演交渉や、三味線の稽古の段取りや、広報協力の要請や、衣裳・小道具の賃借や…あれやこれやが決まっていく。県立尼崎高校出身者に出会う機会も多かった。地元で働いている同窓生がこんなに多いとは。しかも「何回生?」と親しげに聞き返される愛校心?には驚かされた。

奄美大島の方々に至ってはもっとビックリ。初めてお会いした時から、まるで親戚の様で、けれど馴れ馴れしいのとも違う心地よい距離感。打合せでお会いする時間が楽しくて仕方がないくらいだった。

想像力とユーモアで面白がる

「あまに唄えば」カーテンコール

『あまに唄えば』は新作で、しかも劇団員が稽古場で紡ぐようにドラマを足していき、岩松代表が整理していくという作業だったこともあり、なにもかもがギリギリの現場だった。それに巻き込まれたことを、劇団外部の皆さんは面白がってくださっている――と、尊敬の意味を込め信じて甘えた。

貴布禰神社の全面協力で行えたプレトークで「住んでいて当たり前になっている街のことは知らない部分が結構多い」という話題が出たが、つくづくその通りだと思う。当たり前に過ごせる日常は幸福だ。ただし、無意識にやり過ごすより、積極的に面白がって生きて行く方が、なお幸せなはず。

こんなとこもあったんや

“あま”。

知らんかったわ“あま”。

尼崎の人…奄美大島の人…初めて歩く通り…初めて乗るバス路線…初めて降りる駅…

もっと街を、もっと出会いを面白がろう。

劇場も街と同じ。劇場に足を踏み入れることを「敷居が高い」と尻込みしないで欲しい。そこでは単純明快に笑い飛ばせる物語が展開しているかも知れないし、摩訶不思議で難解なドラマが渦巻いているかも知れないが、出会いのすべてを面白がっちゃうくらいの想像力とユーモアが、きっと世界を救う…とあえて大仰に言う。言い切れる自信が、数多くの舞台を観てきた私の今。そして『あまに唄えば』に関わって、優しくてオモロイ“あま”の、さらなる一面に触れたばかりの私の今だから。


たぶさかよ

1959年神戸市出身。父親の仕事の関係で、東京・埼玉・兵庫(尼崎)と転居。県立尼崎高校卒業後大阪の短大へ進学。幼稚園教諭を経て兵庫県芸術文化協会へ転職。ピッコロシアター、兵庫県立芸術文化センターで演劇・古典芸能の制作や広報を経験し、現在は県立劇団の制作担当。塚口在住。