シマッチュの言葉から奄美の歴史を読み解く

奄美群島ってどんなところ?
取材を通して出会った人たちの言葉からその歴史を探ってみました。
参考資料:『奄美の100年』(郷土出版社)

①琉球?鹿児島? いや奄美は“奄美”だよ。

現在は鹿児島県に位置する「奄美」ですが、その歴史を振り返ってみましょう。縄文から弥生時代の古代を「奄美世(あまんゆ)」、平安・鎌倉時代は各地を按司(あじ)と名乗る豪族が支配した「按司世(あじゆ)」と呼ぶなど、時代区分の名称もまた独特です。室町時代には琉球王朝の支配下となり「那覇世(なはんゆ)」として琉球文化の影響を強く受けます。

1609年には薩摩藩主・島津家久が琉球へと侵攻するための「道之島」と呼ばれ、「大和世(やまとゆ)」が訪れます。明治維新までの260年間は薩摩藩が悪化する財政をさとうきび栽培で補おうと、激しい搾取が続きました。

②方言は村ごとでぜんぜん違うよ

シマグチと呼ばれる方言が集落ごとに異なるのは、監視を逃れてシマッチュ同士が会話をするための手段()だったといわれます。泥染めによる奄美特産「大島紬」についても、藩役人から反物をとられないよう土の中に隠したことがルーツだという説さえあります。

明治時代に入ってもさとうきびは基幹産業として奨励されます。1920年代には黒糖価格の暴落や激しい台風に見舞われ、奄美経済は大きな打撃を受けます。この頃から職を求めて阪神地域や関東の工業地帯へと出て行くようになりました。

③焼酎はやっぱり黒糖だね。

米軍の統治下にあった戦後(アメリカ世)は祖国復帰運動の末、1953年に悲願の日本復帰を果たします。政府から特別に製造を認められた黒糖焼酎の隆盛()や大島紬が本土でも高く評価される一方で、高度経済成長期には集団就職で多くの人々が阪神地域へと移り住みました。

④高校野球では沖縄を応援するね

尼崎では、大庄に沖永良部島と喜界島出身者、杭瀬には徳之島や名瀬(奄美市)、東難波は瀬戸内町…とシマごとに集住し支え合ってきました。沖縄出身者に親近感を持っているのも、米軍の占領下にあった歴史を共有し、故郷を離れてこの街に暮らす仲間意識()や、「那覇世」の記憶がDNAに刻み込まれているからかもしれません。

シマッチュ集う奄美の郷友会事情

関西に住む奄美人事情について郷友会の会長を歴任してきた得本嘉三さんに話を聞いた。

「みんな仲良くしたいからね」
得本嘉三さん
関西鹿児島県人会副会長、関西奄美会顧問。1928年喜界島生まれ。大阪での弁護士活動のかたわら、奄美群島で無料法律相談を定期的に開く。

関西奄美会という組織が代表的ですが、シマ(集落)や出身校、共通の趣味など大小あわせて200近い郷友会が関西にはあります。関西に住む奄美出身者は2世や3世もあわせると約35万人といわれ、中でも尼崎は4万人が暮らす最大のコミュニティじゃないでしょうか。武庫川の河川敷や学校のグラウンドを借りて運動会を開いたり、毎月のように集まるグループもあります。私は喜界島出身ですが、週末はどこかの会に顔を出してシマ話に花を咲かせています。私が大阪にやってきた1943年頃は、先輩たちから「奄美出身というのは隠しておけ」と教えられました。そんな中、郷友会という存在はとても心強く感じたものです。