熱烈鉄道ファンが語る阪神阪急抗争史 仁義なき戦い

「昨日の敵は今日の友」などと軽々しく言うなかれ。阪神と阪急の間には、草創期以来の壮絶な路線拡張戦争の歴史が横たわっているのである。主戦場の一つが尼崎だった―。

「牙城」を奪い合う

阪神尼崎駅南側から宝塚行きの阪神バスが出ている。国道2号を西へ進み、西大島交差点から北へ。「尼宝線」と親しまれる県道だが、実はこの道、昭和初期に阪神電鉄系の「宝塚尼崎電気鉄道」が構想を描いた自動車専用道路だった。将来の鉄道敷設をにらんでのことだ。

宝塚といえば歌劇に代表される阪急の牙城。その喉元に、阪神はくさびを打ち込もうとしたのである。1924年。阪神本線の出屋敷から武庫川東岸を北上し、宝塚を結ぶ。出屋敷からは阪神本線に乗り入れ、梅田と直結。実現すれば、阪急宝塚線経由よりも20分以上短縮できる―という構想だった。

テリトリーを侵す阪神の野望に、阪急も黙ってはいない。阪神の牙城・甲子園への殴り込みだ。同じころ、阪急は宝塚~西宮北口の路線を今津まで延長して甲子園経由で尼崎を結び、さらに塚口→伊丹→宝塚と結ぶ循環路線の免許を申請する。阪神もこれに対抗、今津から出屋敷(尼崎)へ、阪急とほぼ重なる「尼崎海岸線」の免許を申請した。

まさに仁義なき戦いである。

激戦の名残、バス路線

阪神の宝塚進出構想は、行政から尼崎市内を高架にするよう求められたために資金難に陥り、鉄道からバス路線へと姿を変えた。心血を注いだ自動車専用道は、戦時政策で県道へと編入。いま、「阪急平野」を縦断する阪神バスで尼宝線を走ると、両者の盛衰を体感できる。

一方、「尼崎海岸線」の結末だが、甲子園開発の利から軍配は阪神に上がる。阪急は尼崎~塚口、伊丹~宝塚の免許が認められたのみ。現在、阪神尼崎と阪急塚口との間に阪急バスが走るのは、この時の名残か。

もっとも阪神が開通させた「海岸線」も、対阪急の防衛が目的だっただけに、出屋敷から南へ東浜までのわずか約1.5kmのみ。戦後、国道43号建設で廃止され、跡形もない。つわものどもが夢の跡、である。


長沼隆之(ながぬまたかゆき)

1967年、西宮市生まれ。阪神沿線に生まれ、阪急沿線で育つ。「野球は阪神、電車は阪急」のファン。現在、神戸新聞姫路支社デスク。妻は尼崎市出身。