二つの私鉄は尼崎のまちづくりに何をもたらしたのか。

鉄道は街の背骨だ。イメージも成り立ちも対照的な阪神と阪急は、尼崎の街にどう関わってきたのだろう。2つの沿線開発史を角野幸博・関西学院大学教授に聞いた。

HANSHIN庶民イメージの定着

戦前は甲子園住宅、六甲山開発、海水浴場などリゾート主導で沿線開発を進めた阪神。しかし既に市街化されていた「工都尼崎」では、行楽地や高級感を打ち出すことはできなかった。土地を提供した沿線住民の発言権も強かったのだろう。杭瀬~大物間の急カーブなどの蛇行路線はその象徴だといわれる。車窓に広がる工場景観が沿線のイメージを作り、闇市から発展した新三和商店街などの既成市街地が庶民的イメージを増幅させた。戦後の阪神はまちづくりを自然に任せ、良くも悪くも、尼崎のイメージを「庶民のまち」として固定化させたといえる。

阪神こぼればなし

「祖父が駅の誘致に熱心だった」「土地を提供した地主が電鉄の役員としても活躍した」。阪神沿線の古老に聞くと、こんな話が出てくる。線路の敷設に合わせ、地主たちは沿線に家を建て貸家にした。尼崎の阪神沿線のまちづくりは完全に地元主導だったようだ。

HANKYU田園都市の住宅開発

阪急住宅の先駆けである塚口、水路と橋が良質の景観を生んだ武庫之荘、農村と調和した住宅地園田。もともと農地だった所に線路を敷いた阪急は、ハワードが提唱した「田園都市」の理念を体現できた。大阪に近接していることから、スプロール化(無秩序な宅地形成)も危惧されたが、一定のグレード感を保つ、まとまった住宅地を作った。しかし尼崎全体で見れば、阪神沿線との違いは大きく、ひとつの市の中に実際以上の距離感を生むことになった。経営統合は両電鉄の多ブランド戦略に拍車をかけ、沿線イメージの違いをさらに広げる恐れもある。

阪急こぼればなし

豊かな農地が広がる武庫ノ庄村に駅が完成したのは1937年。地名の「武庫ノ庄」から「武庫之荘」と漢字を改め駅名とした。伝統を感じさせる「之」と荘園を連想させる「荘」の文字を採用し、まちのブランドというものを強く意識した阪急のまちづくりである。

線路はつづくよ どこまでも尼崎と電鉄 100年のあゆみ


かどのゆきひろ

1955年京都府舞鶴市生まれ。著書に「郊外の20世紀」(学芸出版社)、「近代日本の郊外住宅地」(鹿島出版会、共編)他。関西を中心に、郊外住宅地の再生や都市再生等の調査研究、計画立案などに携わる。現在の主要な関心事は、人口減少社会における都市および地域計画のパラダイム転換について