まつり 第二回 阪神淡路大震災後のまつり

日本人でこの世に生を受けた以上、少なくとも一度は関わるであろう「まつり」。人々が集い楽しむ場である。そこで我々の先祖伝来の究極のまちづくりの手段でもある「まつり」を探索してみよう。

まつりの復活から町の復興がはじまる

先日、阪神淡路大震災後9回目の1月17日を迎えた。地震は突然の出来事で多くの犠牲者を出す惨事となったが、兵庫県内の神社も約500社が建物に被害を受けた。

さて、青年神職で作る「神道青年全国協議会」では震災直後から全国をあげて救援活動のため兵庫入りした。そして行なった活動は被災神社の救援活動だった。具体的には半壊・全壊した社殿の解体工事や、瓦礫の撤去、境内地の整備など。他宗教団体が行なった被災者に対する炊き出しなどを行なうことはなかった。

震災直後にはその救援活動について批判をする評論家などもいたが、その後一年間の神社の様子を見てみると、その時の活動は正しかったことが証明された。というのも、神社は規模の小さなものが多く、おそらくあの時の救援活動が無ければ、多くの神社は未だに手付かずの状態だったに違いないからだ。

では何故神社が復旧、復興なされなければならなかったのか。それは氏子(住民)の心の拠り所であり、その町の求心力さえうみだす“まつり”の舞台の復興がなければならなかったからだ。瓦礫が山積みでは、震災で傷ついた人の癒しの空間を提供する事が出来ない。そしてだんじりや神輿も出すことが出来ない。

貴布禰神社でも、震災後、宮司の私の許可を得る事も無く、地車保存会がまつりを行なうために会議を開始した。私は「今年は無理だろう」と消極的だったにも関らず、保存会の面々を中心に「お互いに頑張ろう」という心意気を持ってまつりが盛大に行なわれた。そしてまつりを行なったことへの苦情も1件も入ることはなかったのだ。

まつりの復活をもって、町の復興がはじまった地域もあると聞く。人々に生きる勇気、そして力を与えてくれるまつり。まつりの力恐るべしだ。


江田 政亮 えだ まさすけ
昭和44年尼崎市生まれ。関西学院大学卒業後、産経新聞社入社。平成5年の父で先代宮司死去後、第17代宮司として現在に至る。