尼崎コレクションvol.12《美談武者武者八景 広徳寺の晩鐘(びだんむしゃはっけい こうとくじのばんしょう)》

尼崎市内に現存している逸品を専門家が徹底解説。あまりお目にかかれない貴重なお宝が歴史を物語る。

秀吉伝説ゆかりの錦絵

36.3×72.0cm
[作品のみどころ] 広徳寺を舞台とする秀吉伝説にちなんで描かれた錦絵。対決するのは誰と誰か?

武者の姿が描かれた本作は、幕末・明治期の浮世絵師月岡芳年が描いた『美談武者八景 広徳寺の晩鐘』と題する3枚続の錦絵版画です。舞台は寺町に移転する前の広徳寺ですが、一体誰と誰の対決なのでしょう?

天正10年(1582)6月、本能寺で織田信長が明智光秀に討たれたことを知った羽柴秀吉は、後に「中国大返し」と呼ばれる強行軍で兵を返しました。江戸後期に流行する『絵本太閤記』などの伝記ではその際の出来事がこんな風に語られています。

俊馬に乗った大将の秀吉は単騎となってしまい、武庫川あたりで明智方の四王天但馬守の待ち伏せにあいます。どうにかこれを凌いで近くの寺に逃げ込んだ秀吉はまず浴室の剃刀で髪を剃り、脱衣場にあった衣をまとって僧侶に化けます。そして台所で食事の支度をしていた僧衆に交じって味噌すりを始めました。そこに四王天但馬守が現れ秀吉を捜しますが、僧侶に化けた秀吉を見つけることができず、やがて駆けつけた加藤清正に討ち取られ、秀吉は危機を脱したというのです。

この話は残念ながら史実ではありませんが、知恵者の秀吉らしい逸話として広く知られるようになります。また、秀吉が逃げ込んだ寺は諸説ありますが、後に広徳寺がその舞台として知られるようになります。この「尼崎危難」伝説は芝居にも取り入れられ、錦絵の画題としても好まれるようになりました。

つまり本作品は、広徳寺での加藤清正と四王天但馬守の対決を描いたものだったわけです。作者の月岡芳年は凄惨で血みどろな作風が有名ですが、師匠の歌川国芳譲りの武者絵にも才能を発揮しました。江戸が活動拠点でしたので、当時の尼崎の実景を念頭に描いたとは言えませんが、画面左端の山並は六甲山に見えなくもありません。

両雄の脇に記載された「四方田但馬守」、「佐藤虎之助正清」という人名は、徳川家康在世中以降の出来事に関する出版物の刊行が幕府に規制され、実際の名前が変えられています。とはいえ誰が見ても「四王天」「加藤清正」であることがすぐに分かるあたり、当時の出版関係者のしたたかさが感じられます。

「天下人と尼崎展」

市教育委員会収蔵資料を紹介する展示を尼信博物館で10/8~11/13まで開催。月・祝休館。午前10時~午後4時。入館無料。TEL:06-6489-9801文化財収蔵庫


楞野一裕(かどのかずひろ)●尼崎市教育委員会学芸員
このところ疲れ気味なのは年齢のせいではなく、「ダメ虎」への応援疲れのせい、だと思いたい…