尼崎の”?”② なぜ尼崎市役所は立花にあるのか。

研究員・綱本武雄が解説する

尼崎市役所
堀がめぐらされた市庁舎へ、建築系学生の見学も多い。舌型把っ手や窓の配置など、村野イズムが随所に。

尼崎市役所は、立花駅から東へ歩いて約15分の所にある。この15分というのが曲者で、雨が降ったら行くのをためらうし、足腰の弱い人はバスに乗らないとちょっと厳しい距離。不便とは言わないにしても、ちょっと微妙な位置にあるような気がしなくもない。聞けば、阪神尼崎駅の近くから移転してきたという。どうして、あの場所に?

尼崎市が発足した1919年当時の尼崎の「へそ」は南部にあり、市役所は城内にあった。ところが、36年の小田村との合併を皮切りに、市域は阪急沿線の武庫之荘や園田方面へと一気に拡大。手狭になった役所を見かねた薄井一哉市長(当時)は、市民サービス、市職員の衛生管理の面から新庁舎が必要と主張。60年の3月議会に建設予算を提出した。学校や防潮堤の建設、下水道敷設など巨額の公共事業が平行して進む最中だったため、一部の政党から時期尚早との声も挙がったが、多数決で可決された。

慣れ親しんだ役所が遠のくという事実を、地元の人々はどう受け止めたのか。尼センデパートの長老、鈴木吉光さんは、確かなことは分からないとしながらも、「合併したばかりの立花に役所を取られたと感じたことは想像に難くない」と話す。

場所の選択については、複数の市有地から検討されたらしい。川野弘『市庁舎の新築』(TOMORROW29号/(財)あまがさき未来協会発行/93年)によると、(1)人口の重心に近いこと、(2)都心に近いこと、(3)交通の便のよい場所であること、(4)地盤が良好であること、(5)煤塵の降らない場所であることという、5つの基本的な方針があったという。

候補地は、建設計画ができていた名神高速道路のインター付近、西長洲の記念公園、東七松町の橘公園の3カ所。当時の人口重心である三反田町に近く、立花駅の利用者数が5年間で4割増と飛躍的に伸びていたことが現在地の決め手になった。建物の設計は、心斎橋そごうや兵庫県立近代美術館などを手がけた建築家・村野藤吾が担当し、62年10月に落成。尼崎市の発展を映すランドマークとして歓迎された。

尼崎の人口重心は?

人口重心は、地域に住む人々が同じ体重であると仮定して、その地域を支える中心点を割り出す。市役所などの公共施設を整備する際、立地上の公平性を担保する際によく適用され、国勢調査に基づいて発表される。最新の平成17年度調査による尼崎市の重心は、山手幹線と五合橋線が交差する錦橋交差点付近。ちなみに、現在のわが国の人口重心は岐阜県関市北部にあるが、首都圏への人口集中により、少しずつ東へ移動している。