らもに踏まれた町を歩く

立花が生んだ鬼才、中島らも。生涯に残した膨大なエッセイの中に、生まれ育った街の風景がスケッチされている。幼少期のエピソードを集めた『ロバに耳打ち』に収められた文章の断片を頼りに、昭和30年代とはすっかり変わってしまった駅前を歩いてみた。

緑字部分は著作からの抜粋

オバチャン食堂

『うどんもカレーもこれが料理か、と思うくらいにまずかった。それでもたまに母親が病気で倒れたりした時に、おばちゃんから出前を取るということになると、我々兄弟は妙にうきうきしたのであった』

文中に「喫茶おばちゃん」として登場する店は、既にない。「駅周辺の外食需要を一手にまかなっていた」とある通り、近所の人の話によると、当時駅前にはこの「おばちゃん」と、別の喫茶店、ラジオ店しかなかったとのこと。カレーはおいしかったとの証言も複数あり、その実態は不明だ。

中島歯科

『歯科医院の入口は、二平方メートルほどの露天の三和土になっていて、そこに一本の小ぶりな桜が植わっていた。道往く人はこの桜の花の具合によって季節の如何を知るのであった。そしてその花も終わりという頃にもなって、おれと兄とはその花吹雪の中で遊んでいたのだった』

らも氏の生家。100坪の敷地のうち、50坪が自宅兼診療所、残りが庭で、両親が山桃やビワ、イチジク、クヌギなどたくさんの樹木を植えたという。らも氏の兄が継ぐ歯科医院の敷地には、数こそ減ったものの、古木が何本か残っているのが見える。

真田医院

『先生は、こちらに背を向けていて、やがてくるりと振りかえるとロイドメガネ越しに、「どうしました」と、太い声でおっしゃる。こっちはもうそれだけで半分病気が治ってしまったような気になったものだ』

駅南口を出てすぐのところで昭和22年から診療を続けてきたが、再開発により、現在はフェスタ立花南館の1階に。ロイド眼鏡の先生はこのエッセイのくだりをとても喜び、パネルにして掲げていたという。いまは亡くなり、息子さんが跡を継いでいるそうだ。


『ロバに耳打ち』

2003年刊行。3章構成のうち、第1章に父や母のことを軸にした幼少期の思い出を綴っている。他の自伝的な作品に『らもチチ わたしの半生(青春篇・中年篇)』『異人伝 中島らものやり口』など。


中島らも (1952-2004)

尼崎市生まれの小説家、劇作家、コピーライター。七松小学校に入学するも、名門灘中への進学に備え、神戸へ転校。だが、灘中・高を経て大阪芸大在学時に結婚後も、宝塚へ転居するまで立花に住み続けた。