50年ほど前、アマエキスポがあった!尼崎大防潮堤完成記念栄える産業博覧会
ソビエトでは世界初の原子力発電所が、アメリカでは水爆実験が。日本では高度経済成長の影として描かれた悲しい怪獣「ゴジラ」がスクリーンに登場した。1954年とはそんな年だった…。日本の重工業の一大拠点としてその名が全国に鳴り響いた「兵庫県尼崎市」では、誇るべき産業力と繁栄を謳歌するイベントが開かれていた。こんなベラボーなイベントが尼崎の南部であったとは…。
会場は、現在センタープールとなっている場所。約19.2ヘクタール。とにかく広い
エキスポ(博覧会)という言葉を聞いて思い浮かべるのは、高度経済成長華やかなりし頃の日本の姿。6400万人がつめかけた1970年の大阪万博、地方博ブームの火付け役となった1981年の神戸ポートピア博、1985年のつくば万博…。まちや国を揚げての一大イベント「博覧会」が、高度経済成長の旗手として躍進したこの尼崎の地でもおこなわれていた。「公害のまち・尼崎」のレッテルに隠れて見えてこなかった輝ける過去の栄光「尼崎博」。
躍進する工都
人口34万(全国第10位)、工業生産高国内第3位、鉄鋼工業生産高は全国一。1953年、尼崎の名は全国に轟いていた。臨海部の工場による地下水の汲み揚げにより、地盤は沈下しつくし、1950年のジェーン台風では尼崎南部地域の大半が浸水したが、その翌年の1951年からは高潮を防ぐ大防潮堤の建設がはじまった。高潮からまちを守ってくれるコンクリートの巨大な壁は、市民的な盛り上がりのなか3年という驚異的スピードで完成し、産業博覧会はまちのこんな雰囲気のなか開催された。
博覧会開催について、当時の阪本市長はこう語っている。
「尼崎市というものをここに大いに全国に対して、その実力を知らしめ、今日まで過小に評価されてきた尼崎というものを全国民に対して、これの認識を新たにせしめる」。
会場は2カ所
博覧会会場は2カ所。尼崎センタープール周辺を第1会場、甲子園阪神パークを第2会場とした。センタープール周辺の大庄地区は当時巨大な湿地帯。尼崎市は防潮堤建設とならび、大庄湿地帯開発を大きな事業として進めていた。肝いりの造成地で悲願の防潮堤完成を記念し、尼崎の産業をたたえるイベントを開くなんて、これが盛り上がらないわけがない。
実力をお披露目
「アマの実力を全国に知らしめる」という凄まじい意気込み。第1会場の「産業館」では、尼崎の企業が多数、製品やその技術力をお披露目した。市外からは航空会社や電鉄会社、軍需生産を意味する保安隊関係の資料までもが展示され、栄える産業をこれでもかとばかりに詰め込んだパピリオンとなった。
「尼崎博は地域の産業振興を大きな目的としています」
全国有数の博覧会資料コレクションを有する尼崎市教育委員会、歴博・文化財担当。学芸員の桃谷和則さん(39)は博覧会を「企業の交流の場である」と指摘する。博覧会は企業アピールの場として機能していた。