50年ほど前、アマエキスポがあった!尼崎大防潮堤完成記念栄える産業博覧会

西会場には銀色のテーマタワーを中心に、噴水、休憩所、産業館、尼崎館、演芸館、衛生水道館、自動車館、大野外劇場が立ちならぶ。もう一方の東会場には、既設の競艇スタンドのほか、兵庫県館、サーカス、2,000万円(約4億円)を投じた長さ200mを超える8字型立体交差の大コースターを中心に「世界迷路」などを備え大人までが楽める児童遊園地となっていた。
(参考資料「尼崎大防潮堤完成記念栄える産業博覧会」朝日新聞社)

ハレの場として

「万博とはお祭りである」。1970年の大阪万博のシンボル「太陽の塔」を作った岡本太郎の言葉である。もちろん尼崎博覧会もまた、非日常感に満ちあふれたイベントだった。装飾をほどこされた自動車、時代行列、さらに象にまたがった市長までが、尼崎のまちを練り歩いた。

かつての湿地帯に、原子力科学の発展を象徴するという高さ30mのテーマタワーが突き刺さり、保安隊の祝賀編隊機が尼崎上空を飛び回る(表紙写真)。

産業館繊維部門のディスプレイ。中央には理解不能なモニュメントが鎮座する
8字型立体交差大コースター。いちいち「大~」とネーミングするところがニクい

「当時は幼かったし、とにかく会場が広くて、迷子になった思い出しかないわ」と当時の様子を振り返る人がある。

「この時代の伸びゆく経済成長を支えたのは、このような大量消費の価値観に支えられたイベントを享受するという、全国民的な雰囲気だったのではないでしょうか」桃谷さんは尼崎博が、過剰な労働が美徳とされた時代の中での「ガス抜き」に貢献したという。

失敗…?

これだけの規模の博覧会。大庄地区としては大いに盛りあがったのだろうか

1954年3月20日から5月19日までの61日間。総入場者数は42万人。1日およそ7000人の人が足を運んだ尼崎博。

しかしこれがのちに大失敗と酷評を浴びる。予想入場者数の50万人を大きく下回り、欠損を出したことが原因である。博覧会開催のわずか2年後(1956年)、尼崎市は財政再建団体に指定される。「とんだ無駄遣いをして…」と言われるが、酷評の鉾先を博覧会だけに向けるのは、あまりにも忍びない。

イベントの成否は観客動員数ではない。客を集めるだけなら、娯楽性を極めたテーマパークにはかなわない。少数の人でも何かを学ぶことのできる場であれば。とは言っても、人が多いだけでも祭は楽しい。

そして半世紀 中小企業都市サミット

「尼崎の実力を全国に知らしめる!」と息巻くほどではない。でも、本当に大切なことを話し合う会合が5月28、29の両日、尼崎市で開かれる。題して「中小企業都市サミット」。東京都大田区、墨田区、大阪府東大阪市、長野県岡谷市など、中小企業の集積で知られる全国10都市の代表が、腹を割って話しあう。私たちの暮らしを支えてきた「ものづくり」はこれからどうなるのか。不思議な魅力をたたえた町工場は21世紀も路地裏にあるのだろうか。

受注がない、後継者がいない、そして人口減がとまらない…。そんな悩みを訴える街は少なくない。しかし、悲観ばかりだろうか。足元をみよう。尼ならでは、のユニークな企業、町工場がある。おもろいおっちゃんがいる。「ネットワークを紡ごう」「街の魅力をつくろう」「生活の質をたかめよう」。どれも分科会のテーマだが、言葉だけで終わらない。2日間みっちり、議論するのだ。現場で苦闘する経営者に学者が混じる。公務員もその輪に入る。

旋盤工をしながら作家活動を続ける小関智弘氏はいう。「商魂なら利益をあげることで自己完結する。しかし、ものづくりの魂は永久に自足することはない」。すべてがグローバルに流れ、効率が優先する世の中。だからこそ、町工場に潜む静かなエネルギーに注目したい。飛び散る鉄の削りかすに、いいものをつくりたいというこだわりがにじむ。

「知恵の交流による地域産業活力の創出」が今回のサミットのメーンテーマだ。討議を経て、29日には共同宣言となる「尼崎宣言」を出す。日本でいち早く発展し、いちはやく衰退する阪神工業地帯の中核にある尼崎のものづくりの実情をみてほしい。会議のあいまに町工場の並ぶ路地裏を歩いてほしい。小関氏の言葉をかりよう。「春は鉄までが匂った」 5.24.02 ■加藤正文