中年よ、胸を張れ

味がある、人情深い、下駄履きの気軽さ。アマの魅力を語る言葉は、そのままオヤジにも当てはまる。街が元気だったころ、熱くて怖くて手がつけられなかったオヤジたち。それが今はどうだ。背中丸めてため息ついてるばかりでいいのか。アマ育ちのオヤジたちの生きざまに学べ。

千房株式会社 代表取締役 中井政嗣さんに聞く「オヤジ道」

なかい まさつぐ
1945年奈良県生まれの60歳。73年、大阪・千日前にお好み焼き専門店「千房」を開店。大阪の味を広めるため、国内外に55店舗を展開中。著書に『無印人間でも社長になれた』(ぱるす出版)、『できるやんか!』(潮出版)がある。

三和市場の塩干物屋で丁稚奉公をしていた。昭和36年から5年間。人が人を呼び、流れが途切れることのなかった時代。向かいの魚屋のオヤジなどは開店から閉店までずっと声を張り上げていた。

商売の基礎を学ぶ丁稚にとって、いちばん身近な大人は番頭さん。言うことは絶対だった。言い訳は口答えと見なされ、意見するなどもってのほか。でも、卸売市場で商品を買い付けるときのやりとりやタバコを一服する立ち振る舞いに、ひそかに憧れていた。番頭さんは怖かったけど、得意先の人たちは家族のように接してくれ、15歳で親元を離れた身に沁みた。みな口は悪かったが、外側と内側でバランスを取っていたのだと思う。

先日、久しぶりに尼崎を歩いたが、あの頃の活気はなかった。人の活気がなくなれば、尼崎が尼崎ではなくなってしまう。客の気分が変わったとか世間がどうとか言う前に、自分や仕事に自信をなくした大人が増えてはいないか。過去の面影を追っても仕方ないが、現在と未来はこれから作ることができる。私にとって、尼崎で過ごした5年間はかけがえのない原点だと自信を持って言える。これからもそう言える街であって欲しい。(談)

大覚寺住職 岡本元興(49) アクティブ住職、歴史を掘る

地域あってのお寺だからと古典文学に登場する尼崎を調べるうち、「描かれている原風景に強く惹かれた」。その行動力は市境も越える。いま力を入れるのは、夫婦愛を描いた世阿弥作の謡曲「芦刈」にヒントを得た都市間交流。京都の祇園祭で巡行している山鉾「芦刈山」の保存会や、滋賀県内のアシの保全グループなどと交流を深め、淀川水系という中世の物流ルートを浮かび上がらせた。境内に能舞台を造り、「芦刈」を創作狂言として上演。この3月には商店街で芦刈山の模型を巡行し大いに賑わせた。他にも、橘や梅など、尼崎にゆかりのある植物にちなんだ多数のプロジェクトを進行中。それらは「尼崎の歴史を知る素材であり、環境を考える素材にもなる」。教育委員長も務めておられると聞いて、なんだか納得。

そば処「竹生」店主 麻生 弘(58) コワモテおやじ、出前で参上

30キロ近くもある丼やそばを担いで、自転車で大物界隈を疾走する。そば打ちで鍛え上げられた上半身には、イタリアおやじも真っ青。「今も毎日腕立て伏せしてるから」というご主人の声は意外と高く「大物(だいもつ)の松方弘樹」の異名も。15才からこの道に入り、お店は今年で34年目になる。昼休みはいつも満席、調理場は戦場のようだ。店内の注文をこなしながら、出前にも対応する。尼崎中央署に近く「昔は取調室までカツ丼を運んだ」という[太陽にほえろ]なエピソードも。髪が少し薄くなり33才にして迷わず剃り落としたスキンヘッドのせいか「よくその筋の人に間違われる」とは奥さんの弁。スキンへッド、サングラス、ヒゲと3拍子そろったコワモテおやじも、白い腹巻が愛らしいのである。

ジャズ・サックス奏者 河田 健(54) 尼のパーカー、いぶし銀

14歳でサックスを持ち、大学時代は夜な夜なナイトクラブで演奏。そのままプロになった。「関学出て就職先がキャバレーのステージやからね。親父もがっくり来たと思うよ(笑)」。百万弗、ナナエ、クラブ阪神…。70年代尼崎の「酒とバラの日々」を肌で知る男は25歳で名門「北野タダオとアロー・ジャズオーケストラ」入団。美空ひばりや山口百恵のバックからストリップショーのBGMまで、なんでもこなした怒涛の青春が過ぎ去り、40代後半にして気付いた。「テクニックは問題やない。アドリブちゅうのはひとつのストーリー。できるだけ少ない音で多くを語れれば、それがいちばんええ」。立花~東園田在住54年。アマが育てたベテランのプレーは、自意識ばかり過剰な若造には決して出せないいぶし銀の輝きを放つ。