ひとりごと

尼崎城最後の城主

尼崎市の南部(現在の南・北城内)に尼崎城があったことをご存知の方も多いと思う。

私の奉職している櫻井神社は、尼崎城の西三の丸跡に鎮座しており、櫻井忠興公はじめ、忠興公の祖先16代をお祀りしている。

そこで今回は、尼崎城最後の城主 櫻井忠興公についての逸話を書こうと思う。

櫻井忠興公は、文久元年(1861年)に、父松平遠江守忠栄が病気のため、14歳で家督をつぐことになったが、7年後に江戸幕府が終わりをつげ明治時代へと移る。この時に朝廷の御誓約書に記入し、勅令に従うことになる。勅令により尼崎藩知事、大神神社大宮司に就任。

と、ここまでは、簡単に履歴を紹介したが、この後、忠興公は日本赤十字社設立に大きく貢献することになる。

世の中では、明治10年(1877年)に鹿児島県で西南戦争がおこり、多数の負傷者がでていた。明治天皇は、医薬品をつくり、医師を現地に派遣していたが、十分にいきわたらないのが現状であった。そこで、当時の元老院議官 大給 恒(後の日本赤十字社初代社長)と同じく佐野常民は、ヨーロッパで有志の救護団体である赤十字社の存在を知り、政府の許可を得て、「博愛社」という有志救護団体を設立した。しかし、有志の団体であるために、資金・人材が思うように集まらなかった。

そんな時に、たまたま東京の邸宅に帰っていた忠興公の所へ大給が博愛社入社の勧誘にやってきた。

話を聞いた忠興公は、すぐに入社。大神神社大宮司を辞職し、同年8月には私財をもとに医師・医薬品を伴って戦地へ向かっていった。

その後も精力的に戦地を巡り、医師の派遣や病院の設立などをして「敵味方問わず」次々に負傷者を救護していった。

残念ながら忠興公は、49歳で亡くなり、日本赤十字社の設立には立ち会っていない。しかし、博愛の精神―広い心で全ての人を愛すること―は、今も受け継がれている。

現在、櫻井神社の境内には、櫻井忠興公の博愛社での功績を称え、尼崎城の石でつくられた紀念碑がたっている。


近藤 教敏(こんどう のりとし)

1970年尼崎市生まれ 櫻井神社禰宜