論:尼崎から学んだ、ケンカを恐れない心 浄土宗知恩院編集主幹・龍岸寺住職『フリースタイルな僧侶たち』代表 池口龍法

旅行ガイドブックを片手にアジアやヨーロッパを旅してみて、ふと戸惑うことがある。

「治安が悪いので要注意」と書いてある地域を歩いても、まるで恐怖感を感じない。安全とさえ感じる。理由は言うまでもない。生まれ育った尼崎のほうが、治安が悪かったからだ。

最寄駅は阪急電鉄園田駅だった。電車に乗るには、競馬の予想屋とその周りに群がるいかついオジサンたちの横を恐る恐るすり抜けていかねばならない。帰りがけに駅に戻って来たときは、競馬で負けて殺気立っているオジサンたちをかいくぐっていく。うっかり肩と肩がぶつかろうものなら、「お前どこ見て歩いとんじゃボケー」と怒声を浴びせられる。幼少から、海外旅行顔負けのスリリングな日常だった。

空気の汚い町でもあった。小学校の教室には光化学スモッグ注意報に関する貼り紙があり、校庭に旗が掲げられたら遊ぶのをやめて教室に戻るように教わった。幸い、私の在校中には実際に注意報が発令されることはなかったが、教科書で習う大気汚染を身をもって知りながら育った。

当時はそれが当たり前の生活だったが、いま振り返ってみれば間違いなく劣悪な環境だった。しかし、それをいまさら悔いても仕方ないから、喜べることを喜んでみたい。

冒頭に書いた通りだが、尼崎で育ったおかげで楽に海外を旅している自分がいる。治安の悪いエリアに入り込んだときに危険を察知する力を、競馬ファンのオジサンたちからもらった。周りに怖い人がいっぱいいたから、空気が汚かったから、私の心と体は知らず知らず日々鍛えられてきたのではないか。

私はお寺というしがらみの多い世界で生きているが、周囲からのプレッシャーに打たれ強い。出る杭を打つ人たちはたくさんいるけれども、「お前どこ見て歩いとんじゃボケー」ぐらいの理不尽なら幼いころから聞いてきたから恐れるに足りない。文句を言ってくる人がいるなら、しっかりと睨んで「お前こそどこ見とんじゃ」と言い返し、ケンカ腰で「仏罰落とすぞコラー」とぐらいに言い放ってみたい。

近年は、葬送儀礼の旧習に対する反発が強く、「お葬式なんて要らないじゃないか」「お寺よりも頼れるのは葬儀社のほうだ」と世間からのヤジが飛ぶ。しかし、お坊さんたちは「伝統に忠実に」という守りの一手で、売られたケンカを買おうとしない。私に言わせれば、ケンカの仕方を知らないから、内輪で文句を言って自分を正当化して満足しているだけだ。

ケンカはただ罵り合ったり、なぐり合ったりするだけのものではない。競馬帰りのオジサンとのケンカはともかく、本来は、大切なものを守るためにぶつかり合うためのものだ。お互いに傷を負い、癒しながら関係を深めていく覚悟があればこそ、伝統に生き生きとした血が流れていく。

だから私は、5年前に宗派を超えてお坊さんたちに声をかけ、「フリースタイルな僧侶たち」というチームを立ち上げた。これは、いまを生きる人々の感性を受け止め、仏教をゼロベースで考え直すためのプロジェクトである。実際の活動としては、2か月に1回、フリーマガジンを発行したり、経典を学ぶためのイベントを実施したりしている。まちなかで肩と肩がぶつかり合うぐらいの距離感で仏教を見つめる気概があれば、いまの時代を戦い抜ける仏教が生まれてくると思う。

この6月から京都のお寺の住職に就任したため、尼崎に居られる時間は少なくなってしまった。京都の雅な空気感がどうもムズがゆいのは、私の体に尼崎の血が色濃く流れているからだろうか。ムズがゆさはいつか消えていくだろうが、尼崎で学んだ戦う力をこれからも生かし続けたい。

お坊さんである著者自らが、フリースタイルな僧侶たちとともに今最も旬な「お寺」を紹介。古くさいと思われがちな「お寺づきあい」の新しいカタチを提唱する一冊。

法話のようなありがたいお話だけでなく、精進レシピ、マンガ、最新仏教イベント紹介など硬軟織り交ぜた誌面が話題に。「日本フリーペーパー大賞2013」では審査員特別賞を受賞。現在31号を数える。


いけぐちりゅうほう
知恩院編集主幹および、龍岸寺住職。1980年尼崎市生まれ。浄土宗西明寺に育つ。京都大学文学部卒、同大学大学院文学研究科で仏教学を専攻。大学院中退後は知恩院に奉職。2009年8月に、宗派を超えた僧侶達のフリーペーパー「フリースタイルな僧侶たちのフリーマガジン」(偶数月1日)を創刊、編集長に就任。現在発行部数1万部を超え、全国で話題を呼んでいる。
http://freemonk.net
近著に『お寺に行こう! 坊主が選んだ「寺」の処方箋』(講談社)。