あのパンのひと

尼崎で一番有名なパン屋さん

バックハウスイリエ 入江正文さん

上品なカスタードとしっとりしたパンの食感はもはやスイーツ。尼崎最強のおもたせといっても過言ではない一品、それが“イリエのクリームパン”だ。梅田の百貨店に行列を生むあの味が、園田で作られていることを誇らしく思う尼崎市民は少なくないはず。バックハウスイリエの入江正文さん(70)にその半生をうかがった。

パン職人を志したのは昭和41年。金沢大学を卒業し金沢のゼネコンに就職した入江さんは「学生の頃から日本は色気と食い気にしか興味を示さなくなる時代がくる、なんて生意気なことを言ってたもんです」と1年半で会社を辞めることに。

焼きたてパンの先駆けだった金沢のパン屋「ジャーマンベーカリー」に出会ったのがきっかけだという。これまではコッペパンが主流だった時代に、はじめて食べたイギリスパンやデニッシュの味に感動した。二度目に店を訪れた時に「私を雇ってください」と社長に直談判し、彼のパン職人としての歩みははじまった。

「大学まで行かせてもらって就職したのに、すべてを捨てて職人を目指すなんて、親には申し訳ないし同級生にも恥ずかしかった。でもそれだけの覚悟があったんですよ。日本一のパン職人になろうというね」。

わずか2年足らずで頭角を表し、店の職人頭になり社長とともに全国のパンを見て回った。新宿の有名店のクリームパンを食べた時「これなら勝てる」と確信したという。当時の一般的なクリームパンは、日持ちを重視し、クリームののどごしや口あたりは二の次だったという。パンだけでなく、洋菓子も製造していたジャーマンベーカリーで洋菓子職人と日頃から交流していた入江さんは、洋菓子用のカスタードクリームをふんだんに使ったクリームパンを開発。「洋菓子を作る感覚でパンを焼く職人なんて当時はいなかった」と入江さんは振り返る。昭和45年5月の発売以来、これが飛ぶように売れた。

元々学究肌だった入江さんは、さらに半年間東京の学校に通い、発酵技術や理論を徹底的に頭に叩き込んだ。「穴を深く掘るためには太いドリルが必要でしょ。パンの世界を深めるには、洋菓子や和菓子、料理など幅広い知識や経験が必要だと思ったんです」と30才でジャーマンベーカリーを退職し、日本一の洋菓子職人がいる尼崎のエーデルワイスの門を叩くことになった。

昭和49年、洋菓子の修行にと入社したはずが、当時パン部門のてこ入れの最中だったこともあり、幸か不幸か、突然パン部門の責任者に抜擢された。売り上げ倍増のために、入江さんのレシピでクリームパンを改良したところ、日に200個しか売れなかったのが、3千個を売り上げるヒット商品にまで成長。他に様々なパンを焼いても、お昼時に主婦たちが買い求めるのはやはりクリームパンだった。この頃には職人として「人から求められる商品を極めるのが自分の仕事」とまで思えるようになっていた。

「エーデルワイスでは本当に色々と学ばせてもらいました。最後は関連会社の社長までさせてもらい、ここで経営を学んだんです」。

バブル絶頂の昭和63年。エーデルワイスから独立し、東園田に自らの店を構えることとなった。当時かわいがってもらっていた津曲孝さん(洋菓子店ケーキハウスツマガリ社長)からは「西宮に店出したらええのに」と誘われたが、「お金がないからここでええです」と選んだのは園田駅から競馬場へとつづく道路沿い、俗に言うオケラ街道に店を構えた。店名のバックハウスはドイツ語でパン工房という意味だそうで、「津曲さんがつけてくれたんですよ」と入江さんは懐かしそうに当時を振り返る。

「地域に愛されるお店にしよう」と開店当時は一般的なパンだけを焼いていたが、入江さんの経歴を知る近所のお客から「あれだけの味をエーデルワイスで作っていたなら、自分の店だったら最高のクリームパンを作れるはずだろう」と熱烈なリクエストを受け、再びクリームパンを作り始めた。

2001年頃に百貨店のバイヤーがその味に惚れ込み、催事販売を展開してからは誰もが知る有名店へと一気に成長した。園田の住宅地の一角で、今も毎日2?3千個のクリームパンを10数人の職人で焼くお店は、桁違いのパン屋ともいえるだろう。「ものづくりが好きで、やる気のある人を応援したい」と後継者の育成にも熱心な入江さん。受け取った名刺の肩書きには「社長」ではなく「生涯現役一職人」としっかりと書かれていた。

バックハウスイリエ

尼崎市東園田町3-27-2
TEL:06-6494-6353
7:00~20:00 第1・3水休