南部再生第49号:もくじ
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パンのひと

ふんわり、ほっこり…なんて感じの雑誌ではないのだけれど、今回はパンをテーマに特集をお届け。取材をしてみるとやっぱりどの世界にもすごい人はいるもんで、まずはパンの人たちをご紹介。

尼崎で一番古いパン屋さん

阪神パン 2代目・生田數馬さんと熱子さん 3代目・生田信夫さんと裕子さん

 尼崎で最も長い歴史を持つパン屋が西難波にあった。その名も「阪神パン」は、尼崎南部で生まれ育った人にはおなじみだ。というのも、こちらでは長らく小学校の給食用のパンを作っていたほか、中学校の購買部で売られていたり、小売店へも卸していたからだ。かく言う筆者も今は無き明倫中学校時代、昼休みによく買いに行ったし、家から一番近い駄菓子屋に売っているのも阪神パンのパンだった。

 市民の心に深く刻まれる阪神パンの歴史は大正時代初期にさかのぼる。初代の生田福太郎氏はもともと料理人で、大阪府庁の食堂で働いていたこともあったという。福太郎氏はその後、妻の親戚の勧めもあり、尼崎の北城内でパン屋を開くことになる。この親戚というのが神戸・灘の麹造り名人で、酒造りに欠かせない酵母菌すなわちイースト菌を分けてもらい、創業にこぎ着けることができたというから、なんとも奇遇な話である。

 さて、開店してしばらくたったある日、近所に住んでいた阪神電車に勤める人物が、「甲子園で売らないか」と話を持ちかけてきた。高校野球が開かれている日に、球場内でパンを売ってほしいというのだ。申し出を快諾した福太郎氏は、息子で後に2代目となる數馬さんを連れて甲子園へ。大勢の人だかりを前に、みかん箱の上に立って、「パン、どうです?」と声を張り上げて売ったそうだ。

 そのうちに阪神パーク内でも売ることになり、いつの間にか「阪神で売っているパン」ということで「阪神パン」になったのだと、御年92歳の數馬さんが教えてくれた。店の屋号として正式に登録したのは昭和9年(1934)頃だったようだ。

 戦後、復員した數馬さんが戻り、妻の熱子さんと共に店を盛り立て、規模を少しずつ広げていく。昭和26年(1951)頃に現在の西難波の店と工場を設け、やがて小学校の給食を手がけるようになると一気に拡大していく。最盛期の昭和40?50年代には小学校だけでなく夜間高校など20校以上の給食を担当。さらに中学校の購買部や100軒ほどの小売店にもパンを卸していた。工場では80人以上の従業員が、朝晩2交代制で働いていたそうだ。

 現在の店を切り盛りするのは、數馬さんの息子の信夫さんと裕子さんご夫婦だ。毎日、深夜2時半に起きて仕込みを始め、約40種類・250個のパンを手作りしていく。給食制度が変わってパン食の回数が減ったこともあり、給食用のパン作りは昨年止めることになった。購買部へ納品しているのも日新中と中央中の2校のみとなり、店頭での販売が主になりつつある。

味付パンと命名されたロールパンはパッケージも味わいたっぷり。バター、チョコなどバリエーションも豊富で、温めるとさらに美味しい。

「たまに『懐かしい』と言って買いに来てくれる方もいますよ」と裕子さん。「味付パン」「チョコロール」「ピーナッツロール」など、昔ながらの書体が印刷されたフィルム入りのパンは、今ではすっかりレトロに見える。それと、最近流行りのデニッシュ系が一緒に並ぶ様子は、この店の歴史を物語っているようにも感じられる。

 取材を終え、懐かしさに駆られてどっさりパンを買い込み、ふと持ち帰り用のビニール袋を見ると、「HANSHIN PAN Birke」とある。「Birke=ビルケ」とはドイツ語で「白樺」の意味。手描きの風景イラストもプリントされている。実はこれは數馬さんが捕虜としてシベリアに抑留されていた時に眺めていた風景だった。辛い時代に心を慰めてくれた白樺の木と共に、新しいスタートを切ったわけだ。

 いつも食べていたあのパンに、こんな物語が秘められていたとは。阪神パンの給食で育った私たちすら知る由もない、街と人の歴史である。

阪神パン ビルケ

尼崎市西難波町4-4-11
TEL:06-6401-2632
7:00〜18:00 日曜休