論:古代尼崎の自然地形と信仰 ―海に浮かぶ島々―坂江渉

尼崎市内に残る砂州列。濃い部分は砂州起源の微高地(田中眞吾『兵庫の地理』の図をもとに作成)

市内にのこる砂州列

尼崎市内には、杭瀬・長洲・難波・浜・潮江・尾浜・上ノ島など、内陸においても、海との関わりをもつ地名が多くみられる。これはかつてのこの付近の海岸線が、5600年~6000年前の「縄文海進」現象により、伊丹台地の南の縁(およそ阪急武庫之荘駅~塚口駅を結ぶライン)あたりまであったこと、それが徐々に時代とともに、南側に後退していった歴史と関連しているらしい。興味深い点は、弥生時代以降、海岸線が次第に南に移っていく途中、一時的にその動きが停滞し、波が運んできた砂の堆積層、「砂州」地形が各地にたくさんできた点である。

地理学者の田中眞吾氏の研究によると、砂州は大阪湾における時計方向の潮の流れに沿い、ほぼ東西方向に列をなして形成され、市内では現在でも、四つの砂州列の痕跡を確認できるという(地図参照)。

砂州の土地は、周辺よりやや高めである。このことは、今でも現地で確認することができる。水はけが比較的良く、水害に巻き込まれることも少ない。そこで早くから人の居住地になることが多かった。砂州上の発掘現場では、しばしば古い時代の集落遺跡等が見つかっている。関連遺構の発掘調査により、四つの砂州列の形成期は、おおむね第①列が紀元前後頃、第②列が3~4世紀頃、第③列が10世紀以前、第④列が12世紀以前と推定されている。

猪名の浦の形成

こうした砂州群は、南側の大阪湾から強い風波が押し寄せた時、古代ではそれを遮るを役割をはたした。その上、砂州間やその近辺には、木造の船が座礁しても損傷の少ない、砂質層からなる干潟状の低湿地が広がっていた。そこで陸地化が進んでいない段階の砂州群の内側には、自然の地形を利用した天然のミナトがつくられた。これが現在の猪名川河口部付近にあったとされる「猪名の浦」である。ここには砂州の間をぬって、多くの船舶が出入りしたようである。

このように市内の大小さまざまな砂州の存在は、人の安定的な居住地の提供や、ミナト形成の歴史に影響を与えていた。さらに興味深いのは、これが地元の人たちの信仰の対象にもなっていたと考えられることである。

生島[いくしま]神社と生島の地名

この点で注目されるのは、現在、尼崎市栗山町において、「生島神社」という社が鎮座することである(JR立花駅の北東方向。図の☆印付近)。この神社は江戸時代には「生島弁財天」と呼ばれ、この地域の伝統的な有力社であった。そして関連史料にもとづくと、「生島」という地名は、古代にまで遡ることが分かっている。

古代における「生島」という言葉は、「足島」と並記されたり、「八十島」に言い換えられる場合があった。当時、海辺に住まう人々(海人と呼ばれた)は、干潟や潟湖などで、潮の満ち干にしたがい、形を変え、浮き沈みを繰り返す砂州の島々をそう呼んだ。神秘的で生命力に溢れるものとして、信仰の対象としたようである。

地域遺産としての地名

現在の生島神社あたりでも、古代において海水は南側に後退した後でも、砂州の微高地は、遠くからみて、あたかも海に浮かぶ「島々」のようにくっきりと認識できた。またその上には松林なども生え、よく目立つ景観をなしていたのではなかろうか。「生島」の地名の存在は、古代の尼崎において、そうした砂州状の島々を聖なる場所として祭る信仰があったことを物語る。今でも市内にたくさん残る海との関わりの地名は、かつての尼崎市域の歴史文化の一端を示す、地域遺産の一つである。


さかえわたる

1959年大阪府生まれ、滋賀県育ち。かつて砂州列の上の西難波町にも住んだことがある。神戸大大学院修了。神戸大学大学院人文学研究科地域連携センター勤務。日本古代史専攻。『播磨国風土記』の神話・伝承などにもとづき古代の地域社会や共同体について研究。編著書として坂江渉編『神戸・阪神間の古代史』(神戸新聞総合出版センター、2011年)などがある。