貴布禰神社の夏祭りとだんじりの歴史。

文/大迫力  参考文献/稲垣恵一『尼崎城下の祭り』

下の写真は戦前の貴布禰神社の夏祭りの様子である。
そう言うと、不思議に思う人もいるだろう。「だんじりはどこ?」と。
この疑問に答えるため、夏祭りが行われる意味と合わせて、貴布禰神社の夏祭りの歴史を紐解いてみる。

夏祭りの意味と「お渡り」。

貴布禰神社の夏祭りの起こりは平安時代にさかのぼると言われるが、当時から貴布禰神社の氏地は、多くの船が出入りする港があり、漁師や市場関係者や商工業者が多く住む「都市」であった。その時代において、都市の人々が最も恐れたのは疫病の流行だった。そのため、1年で一番気温が高く、病気にかかりやすく、食べ物も腐りやすいこの時期に、疫病退散を祈願して祭りが執り行われるのだ。

貴布禰神社に限らず、夏祭りでは氏子や氏地の無事平安を見届けるべく、神さまが神社の外へお出ましになる。ふだんは本殿の奥深くに鎮座まします神さまが、この日はわざわざ出て来てくれるのだ。氏子たちにしてみれば、こんなにありがたいことはない。その感謝の気持ちを表すために、氏子たちも神さまに付き従い、行く先を先導するようになった。こうした行列は「お渡り」あるいは「渡御(とぎょ)」と呼ばれ、有名な大阪の天神祭の陸渡御・船渡御をはじめ、全国各地の祭りで見られる。

「川渡御」「船だんじり」も。

貴布禰神社のお渡りは江戸時代の元禄期から特に賑やかなものになったようで、氏地に川が多いため、神輿を船にのせる「川渡御」も行われていた。そのコースは、神社を出て尼崎城の南側を通って辰己町まで行き、そこから船に乗って川づたいに沿岸部を巡り、再び神社へ戻る。各町がこぞって参加したお渡りは尼崎一番の盛り上がりを見せた。

そのお渡りの列にだんじりが加わったのは、古い記録によれば1700年代の初頭のようだ。これは大阪天満宮の天神祭や岸和田とほぼ同じ時期であり、大阪湾沿岸部の各地での流行が取り入れられたものだろう。

また、川渡御の際には「船だんじり」も見られた。だんじりの台車部分を外して船にのせ、中在家にあった魚市場近くの船だまりで待ち受け、神さまの船をお迎えするのである。かつては夜になると真っ暗だった尼崎の沿岸部に篝火を焚いた船だんじりが現れる光景は、それはそれは迫力があり、関西一円にその名を知られていたという。

お渡りは消え、だんじりが残る。

このように、貴布禰神社の夏祭りは今とはまったく異なる風情を見せていた。ではなぜお渡りも船だんじりも行われなくなったのか?

それには太平洋戦争での被災と戦後の街づくりが関わっている。空襲で焼け野原になった貴布禰神社の氏地が復興されるにあたり、お渡りの中心だった「本町通」が国道43号線となり、行列が通れなくなってしまったのだ。また、工業地帯となった43号線以南にはほとんど人が住めなくなり、お渡りやだんじりに参加する人が激減したことも大きい。昭和33年(1958)に一度復活したものの、資金難や人手不足などで2年間だけで終わってしまった。

一方、だんじりの曳行は時代によって数の増減はあるものの、途絶えることなく続いてきた。今や祭りの目玉である「山合わせ」が、いつどのように始まったのか詳しくはわからないが、昭和10年代まではだんじりが神社に宮入りする時に順番を争ってケンカをしていたそうで、これがいつしか山合わせと呼ばれるようになったという説もある。昭和30年代後半に一度途絶えたが、昭和47年(1972)の第1回市民まつりで復活し、現在のような形式に整えられていった。

独特の受け継がれ方。

境内で行われている神事の様子。写真奥の右端が、ぶらり神主こと、宮司の江田政亮さん。

こうして見ていくと、貴布禰神社の夏祭り=だんじりのぶつかり合いというイメージは、ここ40年ほどのものであることがわかる。他都市の祭りと比べた場合、神事に近いお渡りが行われなくなり、そもそもはお渡りを盛り上げるために始まっただんじりだけが独特の形態で残っているというのは、なかなか興味深い。これについては、だんじりの曳行および維持・管理などを含めても、お渡りよりも資金や人手が比較的少なくて済み、地区ごとの裁量でなんとかなることや、自分たちの町のシンボルとして思いを込めやすいという理由もあったのかもしれない。

ところで、もし現在の祭りが本来の伝統から離れたものになったと感じる人がいれば、それは当たっていない。8月2日の午後、境内で屋台が準備を始める頃、祭りの喧噪が訪れようとするのをよそに、本殿では宮司である江田政亮さんにより、氏子総代や尼崎地車保存協会会長、敬神婦人会役員らが参列し、粛々と神事が斎行されている。機会があれば、境内から覗いてみよう。時代に沿って変わってきた祭りの、変わらぬ一面がそこにある。


貴布禰神社祭礼の船だんじり(貴布禰神社蔵、明治~大正初め頃の絵はがきより)「図説尼崎の歴史(尼崎市立地域研究史料館)」より転載