論:尼が「シネマ天国」だった時代 「尼崎東宝」元経営者 松尾俊介

昭和30年代、尼崎には大小あわせて50館もの映画館があった。なかでも激戦区、阪神尼崎駅北の神田新道界隈でひときわ異彩をはなった映画館がある。その名は「尼崎東宝」。特撮物で全国のマニアをうならせた伝説の映画館の元経営者が、映画への熱い思いを語ってくれた。

神田新道で3館の映画館を経営する家に育ちました。両親はチケット販売から映写機の操作、館内清掃、物販コーナーまで何でもこなしていたので、僕の晩飯はいつも出前。客席で映画を見ながら食べてましたよ(笑)。そんな環境で育ったせいか、結婚したのは隣の映画館の娘。おかげで、最後は4館を切り盛りすることになりました。

オールナイトの熱気

大学を出た昭和51年から本格的に手伝いを始めました。オールナイト上映に力を入れたのもこの頃です。妻の実家の映画館「尼崎東宝」は特撮物に強く、週末になると夜9時頃から明け方まで、映画マニアの主任が「円谷英二の世界」「怪奇恐怖人間」などの特集を組んで、旧作をかけました。ファンの反応は熱かったですよ。公開から30年も経ってフィルムが変色してしまったような映像を、それこそ食い入るように見ていました。新聞や雑誌の告知を見て、関東から来る人もいたくらいです。

オールナイト上映は5本が一般的でしたが、うちは3本。珍しい作品が一つでもあればお客さんが集まったので、繰り返しかけて朝まで持たせていました。2回目の上映に入ると、ファンはロビーに集まって情報交換するというのが名物でした。

当時はDVDレンタルもなければ、ビデオソフトが出るのは人気作だけ。しかも1本5万円もするような高級品でした。珍しい映画は、次にいつ見れるか分からないから、それこそ真剣勝負だったんですね。

特に『宇宙大戦争』をかけた時がすごくてね。特撮シーンが評判で、三脚と8ミリを持った人が最後列にずらっと並ぶんです。全部は撮れないから、好きなシーンだけ選ぶんですが、撮りたいシーンがどこに来るのか、みんな分かってるという…。今で言うたら「映画泥棒」ですわ(笑)。

ファンとの一体感

1993年「元気街あいあい市」。サンシビックで大暴れするゴジラ。写真提供は長嶺英貴さん(元・尼崎東宝スタッフ)。

商店街のイベントに協力したこともありました。サンシビックの敷地でゴジラが建物を壊すという見世物を、商店街の若手たちが企画し、うちの映画館が窓口になって配給会社から着ぐるみを借りたたんです。段ボールで国会議事堂やホテルニューアルカイックを作って、うちのスタッフが着ぐるみに入って破壊するという、まさに手づくりのイベント。今見るとかなり恥ずかしいですけど、面白かったですねえ。このとき夢中になって段取りしてくれたのが、いま三和市場で「怪獣酒場」なんかのイベントをやっているお肉屋さん、マルサ商店の森谷寿さんです。

ドル箱だった子ども向けの映画や邦画が下火になると経営が厳しくなって、尼崎東宝も閉館することになりました。最終日には、常連客が花束を手に集まってくれました。最終上映のあとで「最後だし、スクリーンを破いてみようか」と冗談を言ったらみんな表情が凍りついて、ああ、この人たちは本当に映画が好きなんだと実感しました。まずいことを言うたなと今でも反省しています。

あの映画館をもう一度

今の映画館て言うと、見たい映画だけ見て用が済んでしまう場所になってますが、私にとってはもっと間口が広いものです。ファンもサボりの会社員も、いろんな人が出入りして、入れ替えなしで飲食もできるという場所。またいつか、そういう映画館を持つのが私の夢です。映画談議ができるカフェもつけたいですね。

実は、腕が鈍らないように今でも上映の仕事を続けています。機材はプロジェクターとDVDに変わってますけどね。大勢の人が同じものを見て笑ったり感動している場にいると、これが私の天職だと思いますし、見た人同士でわいわいと感想を言いあうのが、やっぱり好きなんですよ。


まつおしゅんすけ

昭和29年香川県生まれ。3歳で尼崎へ転居し、慈愛幼稚園、金楽寺小、昭和中と進む。大学卒業後、毎日興業(株)専務を経て、現在は(財)日本カンボジア交流センター理事。一番好きな映画は『ライムライト』。尼崎東宝は、大阪「新世界東宝」、伊丹「グリーン・ローズ」と並び、特撮映画のメッカとして知られた。1994年4月10日閉館。