尼崎ゆかりの巨匠たち

あの巨匠も尼崎ゆかりだった。この街で磨かれた感性はだてじゃなかったのだ。

櫻井忠剛(1867~1934)

尼崎藩主櫻井松平家に生まれたが、明治初期に東京の勝海舟宅で洋画家・川村清雄と出会い洋画を学んだ。和洋を折衷した画風の静物画が多く、花卉や能面などを漆を塗った板に描くなど、独自のスタイルで関西の洋画壇をリードした。帰郷後、1916年に初代市長に就任すると、公務で多忙の身となり、贈り物やお礼に筆を取る程度に。今も玄関や居間に彼の作品が飾られている旧家は少なくないのだとか。

荻原一青(1904~1975)

尼崎市築地丸島町に生まれ、友禅画家としてキャリアをスタートした荻原氏は、帰郷の際に尼崎城址の荒廃した様を嘆き、城郭研究とその絵筆による復元を志した。全国の古城を訪ねて制作するが、戦災で作品や資料、さらに妻子をも失う。ジェーン台風でまたも作品を失って生活に窮し、昼間は日雇い、夜は制作という生活で全国の城を描いてきた執念の人である。300点以上ある作品の大半は観光施設・熱海城にある。

中村茂雄(1906~1995)

大阪に生まれ東京美術学校で洋画を学び美術教師になった中村氏。29歳の時に尼崎市へと住まいを移し、市内の高校や中学校で教鞭をとるかたわら制作活動に励んだ。尼崎美術協会の設立にも奔走し45歳で会長に就任。晩年になっても、総合文化センターや公民館で熱心に後進の指導にあたった。P05で紹介した『玉江橋付近』の他、堅実な表現力で『尼崎閘門』『庄下川風景』など数多くの地元ゆかりの作品を残している。

白髪一雄(1924~2008)

綱にぶら下がり、足で巨大なキャンパスに絵具を広げるアクション・ペインティングによる彼の作品は、見る者を圧倒する。西本町の呉服商の長男として生まれ、尼崎中学(現・県立尼崎高校)絵画部への入部が画家の道をあゆむきっかけに。前衛芸術集団「具体」のメンバーとして活躍、特に海外で高く評価される「世界のシラガ」。幼時に見たきふねさんのだんじりの荒々しい光景が作風に顔をのぞかせている、と本人も語っていた。


写真提供:桜井忠剛、中村茂雄(尼崎市総合文化センター発行の図録より転載)、荻原一青(『図説尼崎の歴史』より)