伝説の唄者 武下さんに聞いた シマ唄のはなし

「シマ唄」とはもともと奄美の民謡を指す。集落=シマごとに歌い継がれてきた庶民の唄だ。その奄美民謡の世界で「百年に一人」といわれる伝説の唄者が尼崎にいる。武下和平さん、76歳。その歩みと島への深い想いを聞いた。 取材・文/松本 創

JR立花駅にほど近い「奄美民謡武下流」の稽古場。全国に200人以上いる門下生のうち40人余りがここに通う。武下和平さんは〝燃料〟の黒糖焼酎で喉を潤しながら、ほぼ毎晩、門下生たちに稽古をつける。部屋の壁には、稽古の心得、奄美群島の地図、美しい砂浜の写真…。

「私の生まれた島にも長い真っ白な浜があってね。その美しさは『諸鈍長浜節』という唄に歌われてるんですよ」

昭和8年、加計呂麻島の諸数生まれ。父の三味線を子守唄に育ち、小6でシマ唄と詩吟の師匠に付いた。村の集会所で仲間と歌っていると、年寄りや母親たちが喜んでくれる。うれしくて稽古に熱が入った。祭りや祝い事があると呼ばれて弾き語る。そのうちに三味線の腕前と、駆け上がるような裏声を駆使した起伏に富む歌いっぷりが評判になっていった。

「中学を出て大工をしてたんですが、その時も棟上げだ新築祝いだとかで、よく歌ってた。そしたら芸術祭に出ないかと誘われて…それが運の尽き(笑)」

昭和36年、文部省主催の「芸術祭」。初めて東京の舞台に立つと、その名は一気に広まった。奄美の島々へ、九州へ、関西へ。休みごとに歌いに行く。レコードも出した。でも唄を「生業」にすることはなかった。奄美では、シマ唄は「生活」の一部。それで金を稼ぐという発想はない。芸術祭の翌年には「唄を営業に活かして」と誘われ、生命保険会社に就職。転勤を重ね、やがて尼崎に赴任する。

『奄美しまうたの神髄』
唄遊びの始まりを告げる「あさばな節」から、武下さんの故郷にゆかりの「諸鈍長浜節」まで奄美民謡の定番11曲を収録。芯の強いしなやかな地声と絶品の裏声を行き来する節回しは圧巻。1,995円。

そんな忙しいさなかの昭和59年、武下流を立ち上げた。奄美民謡界で「流」を名乗るのは例がなかったが、島を離れた武下さんの中で一つの思いが膨らんでいた。「先祖から受け継いだものを変わらぬ形で伝えていく。それが自分の責任」だと。

琉球王朝の支配や薩摩藩の圧政の下で生まれ、口伝えで広まってきたシマ唄には譜面がない。詞も「百曲三千首(百の曲に三千の歌詞)」といわれるほど、集落や歌い手によって異なる。それらを体系立てて教本を作り、上達度による「級」を設け、指導法を確立していった。

ある年、門下生たちと尼崎でチャリティーショーを開くと、観に来ていたお年寄りから電話がかかるようになった。「昔、島にいたのよ」「わん(私)のシマではね…」。思い出が電話口からあふれ出し、尽きることがなかった。「時代はかわっても島の人の心にはいつもシマ唄があり、その響きが郷愁を呼び起こすんです。私も舞台で涙ぐんだり、鼻が詰まったりしてね(笑)」。頭をよぎるのは決まって幼い頃の記憶。薪の束を小船に積んで父親と売りに行ったこと。祖父母に諭された言葉。そして、あの長く白い砂浜の風景…。


たけしたかずひら●「奄美民謡を芸術に高めた」と称される現代最高の歌い手。元ちとせら若い世代にも大きな影響を与えた。8月には4作目のCD『東節の心』を発表予定。武下流の三味線教室は随時入門受け付け中。06-6436-0020T

島唄響く杭瀬 五色横丁の夜

昭和の残り香が濃厚に漂う杭瀬の五色横丁は奄美系酒場の宝庫だ。スナックなど8軒が集まっているが、なかでも本格的なシマ唄が聴けるのが「来るだんど」。店に立つ勝島伊都子さんは奄美大島出身の唄者。その深く豊かな歌声を求めて夜な夜なシマッチュが集い、いつしか唄遊びの輪ができる。「ここに来たらみんな島にいる気分で盛り上がるのよ」と勝島さん。

勝島さんの父、徳郎さんは、武下和平さんと並び称されるほどの唄者だった。その父から唄心を受け継いだ勝島さんの相方を務めるのは若手の実力派、若杉英樹さん。尼崎で生まれ育った奄美2世だ。2人で共演した『島むかてぃ』『島うむてぃ』という2枚のCDは、尼崎から奄美へ向けたラブレター。「歌う時は私、いつも島を想っているからね」と勝島さん。

取材の夜、店名にもなったシマ唄の定番「くるだんど節」など数曲を2人で演奏してくれた。帰り道、路地の灯に故郷を想う心が宿っているように見えた。


来るだんど

杭瀬本町3-1-54
06-6489-0717
18:00~ 月休
三味線教室もあり