公害をめぐる人びと

大気汚染に立ち向かった人、それを支えたドクター、公害を監視し続ける番人…それぞれが語る尼崎公害。

尼崎公害患者・家族の会 会長 松光子さん 「知らん顔してたら、何も変わらへん。」

「運動をはじめた頃、『会を組織しましょう』と呼びかけたら『なんで葬式すんねん』て怒られた。それから街の人には難しい言葉は使わへんようにしてきました」。

『おばちゃんが企業に勝った』―1999年、公害裁判の和解を報じる新聞記事の見出しは強烈だった。原告団長を務めた松光子さん(77)は、南城内に生まれ育った生粋の尼っ子。「父も慢性気管支炎、とゆうてもあの頃の尼の人間にとって、そんなん普通やった」。しかし、自らの息子が生後3カ月で、せきが止まらないのにはさすがに驚いた。近所の野村病院へ駆け込み、勉強するうちに「公害」を意識するようになった。

時代は高度経済成長期。繁栄の象徴だった工場の煙を見て「企業の金儲けのために、昔から暮らしてきた私らが犠牲になるのはおかしい」と仲間を募った。71年に「尼崎公害患者・家族の会」を結成。自宅の事務所で患者の仲間と井戸端会議をする一方で、行政や企業相手とタフな交渉を重ねてきた。裁判和解後も、和解条項の履行を求める「連絡会」では机を叩き声を荒げ続ける。「知らん顔してたら何も変わらん。理不尽なことは絶対に許さへん」のが信条だという。

センター赤とんぼ
大物町にある「尼崎ひと・まち赤とんぼセンター」では、手芸や健康体操、踊りといった教室が開かれている。患者が仲間や地域の人と気がねなく過ごせる場である。

「これからの夢?患者たちが昔みたいに井戸端会議できる場所を作りたいなあ。私もそろそろゆっくりさせてもらわな」。40年間闘い続けてきた“尼のおばちゃん”の笑顔が輝いた。

尼崎医療生活協同組合 理事長 船越正信さん 「目の前の患者を町医者として支えたい。」

「人間味あふれる医者でありたい」という船越先生の診療を楽しみにする患者も多い。

「とにかく外来には喘息の人が多かった。程度も重くて驚きました」。1982年に尼崎医療生協病院に赴任してきた船越正信医師(55)が当時を振り返る。診断書を作ったり、気になって患者たちの集会をのぞいたりするうちに裁判が始まった。傍聴席で目にしたのは、証人台で「患者の訴えは詐病だ」と企業側の主張をする医学界の重鎮たち。「そんなはずはない。自分は一介の町医者だが、患者の苦しみを直に診てきた」。同じく町医者として長年患者を支えた野村和夫医師(故人)や弁護士らと3年がかりで反論材料をそろえ、98年に証言台に立った。その裁判の和解から10年。「僕にできるのはただ目の前の患者の声に耳を傾けることだけ」と、今も潮江診療所で患者に向き合う日々だ。

尼崎市公害監視センター職員 巴貞行さん 「地道な観測こそが環境を守るんです。」

「行政の対応は住民の動きに後押しされた。住民パワーはすごかったですね」と感慨深げだ。

開明町にある公害監視センターには、市内各所に設置された測定所から24時間データが送られてくる。巴貞行さん(62)は公害がピークだった1969年、尼崎市に入庁した。同僚に誘われ参加した、公害患者の住民と関電幹部との集会。「住民らの必死さに感銘を受けた」と、その後、自ら公害担当を希望した。

以来30年、公害畑を歩んできた。市と企業の間で結んだ大気汚染防止協定が守られているか、立ち入り検査に奔走。全国に先駆け、企業からの排出を厳しく取り締まる「総量規制」という制度を作った立役者でもある。ひどかった大気汚染も今ではずいぶん改善した。それでも足しげく測定所を巡回し「基礎データこそが一番大切」と、尼崎の環境を最前線で見守り続ける。

「公害」学ぶリファレンス

『尼崎大気汚染公害事件史』(日本評論社)
企業や国・公団を相手 に歴史的勝利を得た17年にわたる裁判闘争の記録がまとめられた一冊。患者・家族、弁護団、学者による記録は1096ページにわたる。

尼崎市立地域研究史料館
2009年より同史料館では、裁判記録や証言調書、テレビや新聞による報道記録など尼崎大気汚染公害訴訟に関する資料1124点を引き取り保管している。